今、そこにいる僕
ストーリーキャラクタースタッフビデオBBSRONDO ROBE


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(No.1329) 新さん 題名:悲しみ 投稿日 : 2000年1月15日<土>12時51分
人間はなんて愚かな生き物なんだろうと思う
人を憎むと人としての感情が消えてしまう
今の世界観がちょっとした弾みでかわってしまう
その中で自分の理性を保とうとする努力が凄く難しい時代に
生きてる人々が可哀想であり今を生きていくためには
このような試練が必要なのかもしれない
このアニメを見て人間の残酷さのやさしさを
革めて感じました。
すばらし作品をありがとうございました。
Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Windows 98; DigExt)
(No.1330) えんじ。 題名:恥ずかしいよう。 投稿日 : 2000年1月15日<土>16時52分
今僕のサウンドトラックは私もほしいです。
ビデオもね。

EDの「子守歌」って、いつ頃に発表(?)されたのですか?
大地監督が20歳のときにはあったのらしいですが・・・(じゃあ今監督はおいくつ?)。
もともとは無題だったそうで。今僕に為に創られたのではないんですか・・・・。タイトルと歌手は昔(?)とは違うらしいってことしか知らないんで。どなたか知っていらっしゃったなら教えてもらえないでしょうか。
また、今僕の制作の背景なども知りたいですね・・・。
今僕関連書もあったら知りたいです。

そういえば(?)今シュウのいる世界って地球の50億年後の未来らしいですね。今さら知りました。恥ずかしいです。皆さんはきっともう知ってたんでしょうね。あまり書き込みって読まなくって。読むことは読むんですが皆様難しいことばかりで。わかんないんです。
50億かあ。わからないですね。どうなっているのか。・・・どうして50億年後なんでしょう。

何かしらないことばかりで恥ずかしいです。
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(No.1331) 佐藤@komaba 題名:作品世界の住人達は自分たちが住んでいるその世界を批判できないのだろうか?その1 投稿日 : 2000年1月15日<土>17時22分
○この投稿では,「作品世界内についてディスカッションするのにいわゆる現実世界の価値判断を持ち込む必要はかならずしもないだろう」ということについてのみ述べていこうとおもっています(*注1)

>天野氏曰く
> 作品世界を現実世界とは独立のものとして考えたいとの事ですが、「作品に入り込んだ視聴者達が
>その状況とどう相対するか」について言うと、受け手は現実世界の価値観に従って作品の状況に
>「相対」するのであり、純然たる「視聴」、つまり現実世界の価値観を否定して作品世界の価値観を
>全面的に無批判に容れ、状況の推移を鑑賞するだけでは、到底評論などは出来ず、「良かった」
>「悪かった」というような感想すら存在し得ない。評論も感想も、現実世界の価値観によって生ずる
>ものです。

○まず,私の
>むしろフィクションについては,作品に入り込んだ
>視聴者達がその状況とどう相対するかと
>いうことを評価の基準としたいところです。

の文章についてですが,これは視聴者と作品との関係についての評価の基準としては?ということについて述べたものです。ここで,氏の「受け手は現実世界の価値観に従って作品の状況に「相対」するのであり」については,例えば,次のような例によってそうでないこともあり得るだろう,と考えています。

・大地監督の関わった作品をもちいるなら,一番いいのは「赤ずきんチャチャ」でしょう。この時例えば,チャチャが魔法のレベルをアップするには,というテーマでディスカッションするとします。このとき,我々が日常暮らしている世界での知識などを用いる必要は必ずしもないでしょう。つまるところ,セラビー先生に魔法でレベルアップしてもらうというようなことすらディスカッションの対象になるでしょうから。 
 (ここで,今僕を例として挙げないのは,サラの妊娠について中絶を認めるかなどという問題は,なまじ現実の問題と重なり合うように見えるので,議論しずらい,というのがあるからですね)

○「現実世界の価値観を否定・・・中略・・評論などは出来ず」の部分についてですが。
 まず「作品世界に入り込むということ」が即,氏のいうような「作品世界の価値観を全面的に無批判に容れ、状況の推移を鑑賞するだけ」ことを意味するとは考えづらいです。私たちは自身の住む世界に入り込んで居るともいえますが,だからといって,「無批判に受けいれ」というわけでもないでしょ?。また,「評論も感想も、現実世界の価値観によって生ずるものです」の部分については,次のような考えによって反論します

続く
Mozilla/4.7 (Macintosh; I; PPC)
(No.1332) 佐藤@komaba 題名:作品世界の住人達は自分たちが住んでいるその世界を批判できないのだろうか?その2 投稿日 : 2000年1月15日<土>17時25分
続きです。あ,天野氏の引用もとは1/10の「現実世界」のタイトルの文章です。

 私たち自身が住んでいる社会,世界を私たちは自ら批判できる,ということが挙げられます。このときに,私たちは,私たちの住んでいる世界の外の世界の価値観など(いわばメタ世界的なもの)に依存しなければ,自身の住む世界すら批判できないのか?というとそんなことはないでしょう。(勿論「自分はバカか」という命題について自身で考察を行うには,「バカでない自分」という仮想的な存在を設定しておかないといけないのでありますが, 自身の中に潜む自己矛盾について考察するくらいならば,自分という完結した世界の中で事足りると考える次第です)
 ならば,作品世界に入り込み,その世界の住人になり,独自の倫理や考えや言葉使いを覚えてそれに基づいてその世界そのものを批判していくということは可能でしょう。優れた作品というのは,そうした事ができ得るものであるのでは?とも考えているわけですね。そしてこの場合には他者ともその世界の言葉,考えで互いにディスカッションできるでしょう。
 


最後にちょっと付け加えるならば,, ここのログを見る限りでは,一部の人々の心の中には,確かにシュウやブウやナブカやサラが生きている(あるいは死んでいる)ように思えます。それは遠い世界の人々について「知識」として思いをはせるというよりは,ずっと大事な事かもしれない,と時に私は考えているわけですね。また「お気楽」という言葉に感じる揶揄に対しては,ちょっと嫌な言い回しですが,南の島でのんきに暮らしていた人々のところに乗り込んでいって,「キリストを信じようね」というようなことはあんまりしたくないなぁ,とだけのべておきます。


ところで,フィードバックという言葉を使っていますが,どういういみですか?私の習った意味とは違うようですが。

(*注1)天野氏が用いている作品についての,評論,評価という言葉については天野氏が氏独特の意味づけをおこなっているようなので,私はもうすこし緩い意味合いで使えるディスカッションないしは考察という言葉を用います。ま,他人とお喋りしたりいろんなことをはなしあったりするというようなきわめて広くつかえるようにしておくというわけです。
 また,評価という言葉については,私自身は次のような簡単な定義付けを行っています。
 「恣意的な評価基準を設定し,それに基づいて考察を行う」
 これに基づく限りにおいては,どのような評価基準を選択するかは自由なのだ,というわけですね。
 私たちが生活してる世界での法律や倫理などをその基準に用いることもできるでしょう。が,せっかく利用可能な無限の空間があるのだから,もっと自由に選択すべきだろう。だから,我々の世界ではあり得ないような倫理や科学を元にしてもいいと考えるのです。
 更に,もう一つ 評論,評価,批判ということばについてですが,
 ○Aハムド氏はいっていることとやってることが矛盾していることを批判する
 ○Bハムド氏の存在は矛盾しているがそのような存在を作品内に許容しているので,その作品はダメだ!
 Aは作品内に入り込んだ人がその状況に対して行う批判ですがBは メタ作品的な存在である評論者が作品について述べているという状況でこの二つは別物と便宜上考えておりまして,この投稿に限るならば,私のいうところの作品に対しての考えは主にAの事に限定していると考えていただけると幸いです。
Mozilla/4.7 (Macintosh; I; PPC)
(No.1333) 佐藤@komaba 題名:黒い肌3 投稿日 : 2000年1月15日<土>17時34分
黒い肌についてコメント下さった方有り難うございます。
この質問については,ここであまりくだくだとやるのも
なんですので,セガBBSの方に河岸を変えて質問をおこな
っています。興味のある方は「セガ伝言板」のBBSのアニメの
コーナーの1月14日の記事「黒い肌の主人公」のスレッド
をごらん下さい。って別の社の宣伝みたいですが,セガBBSの
方でもこっちの宣伝したからおあいこでいいでしょ。
 まぁ思ったよりはある,ともいえますし,一方でじゃぁ多い
といえるほどあるか,というとそうでもないように思えますが。

尚,ジャングル大帝,チビクロサンボなどの黒人表現については
「ちびくろさんぼを考える」とか「誌外戦」
「有害コミック問題を考える」
「差別用語の基礎知識99」,などの本に
いろいろと載っています。ちび黒サンボについては,
もっと詳しい経過と考察が載っている本も一応よんだんですが
書名をちょいとわすれてしまいました。


Mozilla/4.7 (Macintosh; I; PPC)
(No.1334) リール 題名:見て思ったこと&12回を見て 投稿日 : 2000年1月16日<日>00時13分
はじめして!よろしく願う!

いつも聞いてるラジオで宣伝してたから見てみようと思って見てみた。
最初は普通の村物語かなんかかと思ってたけどそうじゃなかった。
そして、「おじゃる丸」や「十兵衛ちゃん」と同じ監督さんだと知ってすごくびっく
した。
すごくいい内容の話しだと思った。地球いや、宇宙全員の人々がこのアニメを見れば
いいなとおもった。わたしはいままでいろりろアニメを見てきたけど、このアニメ
が一番好きだ!!

12回を見て、ブーとスーンがあああああああああああ・・・ってもうめちゃくちゃ
泣きました。みなさんはどうでした?

<ちびくろさんぼについて>
TVでちょっと見ただけだからたいしたことは言えないけど、
あの本をかえてしまったことにわたしは反対である。
わたしは小さい時あの本を親によんでもらってて気にいってた。(まあ好きなのは最後のパンケーキのところだったりするが^^;)
あれは別に差別でもなんでもない。というかかえることによって逆に子供(オレも)
夢をうばってると思う。

なんかはじめてなのに「だ。」口調で・・・(^^;すいませんでした。
仲良くなれば、もうどんどんため口かますのだが・・・
ではまた!レスもとむ!
の部分とかだったりしたが・・・)
Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.0; Windows 95)
(No.1335) 津川 投稿日 : 2000年1月16日<日>00時18分
久しぶりに書きこみます。

予告が全てを語ってますね。ハムドの声ではなかったのは、あの場で出る幕は無かったということです。あの最後の場面で、願わくばスーンの弾丸が一瞬早くナブカに当たっていれば・・・。あの回において、私はナブカの葛藤よりも、あの勇気ある少女
の行動に敬服したい。

最終話、どうなるんだろうか。


Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.01; Windows 98)
(No.1336) 水城瑞穂 題名:気が重い・・・その1 投稿日 : 2000年1月16日<日>02時13分
 迷いながら、「今、書いています」(字数が多すぎるとかいって拒否されたので分割します)
 大地監督の新作という事で、始まる前から雑誌とかネットとかで見かけたはずなんですが、見損ねて、自分は偶然件の3話から見始めました(近いうちにDVDでも買って見ようと思います)。そんで、「Hi-Ge」 のVol.0 を買ったり、「アニメ批評」の監督インタビューとかを「立ち読み(失礼)」して、ずっとここはROMでしたが、何か書かなければいけないような気にはなってました。
 大地監督は、「ナースエンジェルりりかSOS」からのファンです。だから、Hi-Ge で「りりかからファンになった人は今でもついてきてくれてるんです」という事が引っかかって・・・付録のCDROMでも実際に語っている映像があったしなぁ(まあ、一方的な想いではありますが)。

 12話を見終わって、ずっと気が重いですね。気分転換に、それではと「おじゃる丸」を見ても、何だかなぁ。(貧乏神とかうすいさちよが出てる;_; いや、今は初期の再放送だから出ないけど)

 まず、この作品に関して、否定的な見解を述べる事に、本人以外にどれほどの意味があるのかという事の疑問があります。(まあ深くは追求して欲しくは無い・・・要は「嫌い」だということなんで)というか、細かく分析することで、ますます分からなくなるという性格を持っている作品とも思える(まあそれは、他でもよくあることでもあるんだけど・・・)。この作品に対して監督は「痛い」というキーワードを示していた。だから、そもそも客観的に理屈を積み上げたところでは、何もこの作品に関して理解したことにはならず、「痛い(泣いたり、ショックを受けたり等々)」と「主観的」に感じなければ、この作品に関しては何の意味もないのではないか、と個人的に感想を持っている。
 なんとなく、「今僕」に「りりか」を想起しています。13話だから、時間は短いけれど、悲劇が起こる前の、それなりの退屈とも思える(いや、退屈だと感じる事が、本当はその大切さを何もわかっていないことなんだ・・・)日常の描写をやることに。3話に対する、1、2話。12話に対する8、9、10、11話という感じか・・・。

 
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(No.1337) 水城瑞穂 題名:気が重い・・・その2 投稿日 : 2000年1月16日<日>02時13分
「悲劇という物語」は、普通に考えたら「見たくない」と思う。けれど、少なくとも「表現」のジャンルとしては昔から「存在」してるわけ。将来的に無くなる性質のものでもないでしょう。それが「痛い」と感じるものの一部かもしれませんし、特に世界設定や説明などを全く省き(どの時代に生きようと、人間を描く際には余り関係無い)、それぞれの登場人物のセリフと、その心情を表現する間をおいた演出など、余計な描写を省くという点は「りりか」以来のような気もする(りりかも見続けるには苦しいものでしたし・・・)。りりかでは、残念ながら、「原作付き」という制約の為(評価としては池野や秋元のりりかではなく、「大地りりか」という評価だったし、自分もそう思う)「今僕」ほどの悲劇ではなかったのが、今回は「自由」に表現した結果がよく現れているようにも感じる。(十兵衛ちゃんはギャグが多すぎて落ち着かなかった・・・)
 まわりで夥しいほどの多くの人々が死んでいく状況の中で、主要登場人物は誰が何時死んでもおかしくなかった。(12話でそれは崩れた?)誰でも見たくないと思えるのに、何故そういうものが存在しているのか? と考えていけば、そういうものには、みたくないけれど、いくらかの「価値」のようなものがあるということなんです。そういうものをちゃんと表現するという姿勢に、信頼がおけるという点でりりか以来大地監督作品以来のファンをやってるわけなんですけどね。まあ、いつも「これ」だと疲れてしまいますが、監督のこれまでの実績から、「当然」こういう作品も視野に入っていたのは当然過ぎるかも。(まあ、これは約束されていたことなのかなぁ・・・・ト、イミシンニイッテミタリシテ)

 人と死別するという事が、単純に「痛い」ものであろうはずがない。それは受け止め乗り越えなければならない性質のものだ(実際に経験はあることですけど・・・別に実際の戦争ではない・・・)。しかし、いくら言葉や「表現」で訴えようと、実際に経験しない事には、「基本的」に「理解」出来ないことであろう・・・擬似的に(決してヴァーチャルという意味ではない)経験出来る可能性はあるかもしれない。それが、多分、「そこにいる」という意味かもしれない。

 現在、日常に飽きた連中が、軽はずみに、「戦争」を唱えたりするのが流行っている(相手はどこでもいい・・・「悪の組織」とレッテルを貼れば・・・)。ナブカが「暗殺者の村」だと切り捨てて、殺戮を何の躊躇いも無しに行動することとに重ねられるかもしれない。
 その時、客観視して「人間とは残虐性を持っている」と自分を自己分析して肯定するか、殺そうとする相手が生きている「人間」と認識できるか、の違いに「現実」の分かれ道かもしれない。
 死を語らずして、生は語れない・・・・という言葉をある本で読んだことがある。まあ、そーゆーこと。

 といいつつ、俺も突き放して(客観化して)書いている・・・・まともにのめり込むと泣けてくるので、続かない・・・^^;)
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(No.1338) ロンド 題名:苦しさの疑似体験? 投稿日 : 2000年1月16日<日>02時47分
今僕の十二話をみました。
この作品に関しては否定的な意見が多いようですが、私はきっちりと作られたすばらしい作品だと思います。今週のお話でついに主要人物にも犠牲者がでました。最近作家の小野不由美さんが、小説で苦しい場面を書くときは読者も読むのが苦しくなる。それが本当に苦しい小説だ。みたいなことをおっしゃってました。
(記憶が曖昧なので本当はもっとうまい言い方でした。)
苦しいなぜこんなにも人が死んでいく作品を作ったのか?
その答えが上記のお話を聞いて説けた気がします。今僕は本当に悲惨な
戦争という世界を見る側も苦しくて目を背けたくなるほど真剣に描いた
ものだと思います。アニメはエンターテイメントだからおもしろくなければ
いけない。ということをおっしゃる方もいますが、実写ではなかなかできない
ことを真剣に描くという点にこの作品の価値があります。7時台という
時間帯もとアニメという番組の特性から子供が見ているかもしれませんが、
この作品を悪影響があるといって排除しないでいただきたい。むしろ親子で
見ながらこの作品ひいては戦争の悲惨さをじっくり話し合う場にしていただきたい。
現状では時間帯や親子の関係から難しいかもしれませんが。
いろいろ書きましたが、最終回にこの作品がどんな結末を迎えるのか楽しみです。
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