今、そこにいる僕
ストーリーキャラクタースタッフビデオBBSRONDO ROBE


[ ログNo.1719〜No.1728 ]

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(No.1719) 久城 題名:まだ居たんです(笑) 投稿日 : 2000年2月12日<土>03時03分

NASTY@鬼畜調教師さん、ご無沙汰でした
何か妖しいゲームにでもはまっているんでしょうか(笑)

リヴァイアスは最初の何回か見て、つまらなかったんで(^^;)見るのやめちゃった
んですけれど…

>>過激な事をやって度肝を抜いてやろう!
>>という狙いがあって、それを表現するために後からシナリオが書かれた作品とい
>>う印象を持っています。
>【引用セガ・アニメBBS p468 ツリー名・今週の無限のリヴァイアス・2!
>(ネタバレ) pinkcrimsonさんの発言より】
>
>と言う発言がありました。
>別に吊し上げようなんて気は毛頭ありませんが、この見方にオイラはどうしても
>違和感を拭えず今僕を御覧になっていた皆さんの意見も訊きたくここに引用して
>みました。

これは一寸違うような気がします。
あくまでも推測でしかないですけれども、今僕の企画当初は類似性を感じさせる
『未来少年コナン』のような物語で、一寸現実の戦争の雰囲気を盛り込んだシナリ
オだったような気がします。
しかしながら、時間的制約のために肉をそぎ落とされ骨格だけしか残らなかったた
めに、背景描写も希薄で、唐突な展開に終始していたのではないかと感じます。

つまり、『度肝を抜くためのシナリオ』を作ったのではなく、骨格だけでストーリー
を作ったら『度肝を抜いてしまうようなモノになってしまった』ってのが正解のよう
な気がします(^^;)
まあ、そこには既存のモノにはない作品にしようとしたスタッフの『あがき』とかが
あったんでしょうけれどもね…。


でわでわ
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(No.1720) toshi-yk 題名:「今僕」と「リヴァイアス」1 投稿日 : 2000年2月12日<土>04時34分
>NASTYさん
 
 興味深い論点なのでレスを。ただ僕もつるし上げをする意図はありませんし、ある人の意見を別の掲示板でうんぬんするのは問題があるかもしれませんから、あくまで「意見への言及」で、意見の持ち主とは切り離して言及することをお断りしておきます。
 挙げられている書き込みに関しては、作品批判をするにしても製作者の意図を低く見積る手法はどうかなあ、と思う程度なので(同様の批判をするにしても久城さんの見方の方が妥当でしょう。「今僕」好きなのになんですが)、自分なりの視点からの両者の比較になりますから、期待されてるようなものではないかもしれません。あと、単純に両作の優劣を決定する意図はないことをお断りしておきます。

 リヴァイアス、これまでの地味ぎすぎす時々歩み寄りな描写でも十分なインパクトを受けていたので、ことさらにきつい事件によって登場人物間に大きな亀裂を持ち込む必要があったのかなあとは思います。そんなことは一視聴者がどうこう言うことではないでしょうが、愚痴です。こずえではなくあおいに感情移入してしまってですが、見たときかなりきつかったので。「今僕」と違って、特殊な閉鎖空間内ではあっても、日常を描いた、亀裂が顕在化しそうでしない、あるいは抑制する、しても暫時的に修復される、といった展開を望んでいたせいもあると思います。そこに二連発だったので、性的暴力が浮いて見えてしまう感が。加えて、個人的にはどうも理由づけが弱いように感じられます。いくら確執があったとはいえ、女性が同じ女性に他人を使って性的暴行を加えさせるものだろうか、という点です。ここは国策による出産育児の奨励という理由づけを持っていた「今僕」と違うところではあると思います。
 「蝿の王」と類比して同様の展開を期待する向きがあるようですが、「リヴァイアス」に僕が見ていたよさ、リアリティは昴治に代表される、そして他の人物も発揮している繊細な煮え切らなさの部分であって(この辺りは出色だと思います)、ああした閉鎖空間の中で猛スピードで破綻へまっしぐら登場人物容赦なく死にエンドは夢から覚めたような白々しさ、といったものではないのですが。
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(No.1721) toshi-yk 題名:「今僕」と「リヴァイアス」2 投稿日 : 2000年2月12日<土>04時36分
愚痴はともかく、「今僕」と比しての「リヴァイアス」への批判の少なさをいぶかしがる意見がセガBBSでの「今僕」との比較のはじまりのようですが、描写の間接性のせいか視聴時には気づかなかった人が多いせいもあるような気がします。
 そして、気づいた人が批判しないのは、「今僕」と比して軽いからだ、というのは、先に書いたように「今僕」の国策ほどの理由づけを欠いている点で一理ありますが、当たらない部分もあるように思えます。「今僕」も、視聴者がその描写に必然性=重みを感じなかったからこそ、多くの批判を受けたのではと思うので。僕は現実における同様の事態への予備知識があったからその重みを理解できましたし、それがなくとも描写への批判を通り越して描くなというのは行き過ぎだと思いましたが、「今僕」の描写が人によっては唐突で、不用意に性的暴力を扱ったと捉えられうるものだったのはたしかだと思います。むしろ「リヴァイアス」の方が、前後の文脈をきちんと描いており、行為そのものへは批判すべきものであれ作品内における描写の文脈には視聴者も納得しているためもあっての批判の少なさなのでは、と思うのですが。

 あと、こずえが事件のあと一方で傷をイクミの拘束に利用して、他方であおいを攻撃する、と、「被害者していない」点もあるかと。この描写のために、「軽い」と見る人もいるのでは。この点はあくまで被害者としての自分にこだわったサラとは対照的に感じました。ミシェルにしても、とっとと「客」の一人を篭絡して脱出しているし。これには、ある種の強さを感じると共に、こずえ、ミシェルともに、「無理」も感じました。やはり性的暴行はいやだ。けど、「今僕」を見たときにも感じたことですが、男性が女性に行為を強要できるのか、という点には、自分はしない人間でありたいですが、自分を含めてやる可能性を否定はしきれません。下種な想像ですが、「今僕」では国策だから、あるいは慰安だからと、「リヴァイアス」では加害者の女性たちから求められて乗ってしまって、行為に及ぶ情景が目に浮かびました。女性はやらないんじゃないか、男性はやるんじゃないか、という所には根拠のない偏見の部分もありましょうが。
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(No.1722) toshi-yk 題名:「今僕」と「リヴァイアス」3 投稿日 : 2000年2月12日<土>04時41分
 そして、被害者に積極的にかかわろうとする他人も、両作共に描いてますね。ともすれば「特別扱い」になって両者を苦しめること、あるいは独善の押しつけといった危険を伴う行為であり、「リヴァイアス」では作中で昴治がその危険を述べてもいます。それでも何か話したいというのシュウでありあおいなんでしょうが、(現時点では)その優しさorおせっかいの仕方、結果がかなり違うところも印象的でした。
 シュウの訴えが、サラの妊娠を受けていたこともあり、死ぬな、おろすな、という、乱暴無責任で押し付けがましくはあるが具体的な訴えだったのに比べて、あおいのそれは「前みたいに楽しく」という無責任かつ困難かつ曖昧な言葉。そしてシュウが少なくともサラのその場での自殺&堕胎を思い止まらせたのに比べ、あおいはシュウのように発した言葉の薄っぺらさを指摘されるに留まらず、おそらくこずえもこうしたことがなければそう簡単には口にするつもりはなかっただろう、あおい自身は無自覚な持てる者の傲慢さに対する嫌悪まで強く突き付けられて、あげく徹底的に拒絶される。「リヴァイアス」には、こうしたわかりやすい亀裂の拡大&暴露ではなく、もう少し繊細で日常的な・・・しつこいですね。別に今の展開を全否定するわけではないのですが。引き込まれてはいますし。この辺で。
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(No.1723) toshi-yk 題名:「今僕」と「リヴァイアス」4 投稿日 : 2000年2月12日<土>05時19分
 ついでに、「リヴァイアス」にはない「今僕」の特質について。水城さんが先に触れられてますし、僕も何度か書いた夕日、そしてそれを始めとした風景だと思います。「今僕」は風景の美しさも出色だと思います。対する「リヴァイアス」は、風景の存在しない閉鎖空間を舞台としている。もちろん風景描写がないからだめなどというつもりはないですが、「今僕」の美しい風景描写を思い浮かべながら閉鎖空間における群衆劇のリヴァイアスを見ると、「人間ばっかりだ」と。

 と書いていて思ったのですが、この風景に対する扱いの違いは、もう少し根深い問題につながっているように思えます。端的に言えば、風景=ノスタルジー=自然や親子関係への対し方。善かれ悪しかれ「今僕」の風景描写には強いノスタルジーがありますが、「リヴァイアス」では、合成された地球の映像に感嘆するあおいに対して昴治が、「ただの合成だ」と一蹴する場面が示唆しているように、風景とそれのもつノスタルジーを積極的に否定しています。ひいては、自然と(子供が小さいときの)親子関係への賛歌が顕著な「今僕」に対して、「リヴァイアス」は昴治の親、弟、幼なじみから独立したいという望みを強調している。「今僕」は少年が主人公でノスタルジーを肯定し、「リヴァイアス」は少年期を終えようとしている者が主人公でノスタルジーをより否定的に扱っている。子供時代とそれへのノスタルジーにどうけりを付けるのかという経過がリヴァイアスの重要なテーマではあるのでしょうから、単純な否定ではないのでしょうけど。
 どちらかを選ぶつもりはないですが、どちらの登場人物に等身大に共感するかと言えばやはり「リヴァイアス」。「今僕」への共感の仕方はもう少し特殊で、自分でもどうにもつかめない。だからうだうだ考え続け書き込みを続けてもいるわけですが。ああまた四つもの長文に。
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(No.1724) toshi-yk 題名:後言い訳 投稿日 : 2000年2月12日<土>23時04分
 大地監督と脚本担当の倉田氏との対談が乗っているということで、アニメージュ三月号を買いました。その中で少し気になったのが、倉田氏がインターネットでの書き込みに触れるなかで、「ちょっと描写が緩くなると甘いって批判している」、「レイプを描いたからすごいという感想が出たのは、ちょっとキツいなぁと思いました」と、虚構や再構成された戦争映像に慣れてしまうことからの「感覚の麻痺」を憂慮されているのですが、性的暴力描写のさいはともかく、前者の批判に相当するのは7-10話辺りの僕の書き込み以外はそうないんじゃないかと思い、製作者の方に限らず他の方から見て、自分の書き込みが、戦争の苦痛への感覚が(というか、僕のように戦争未経験の人間としては、それを想像する能力が)麻痺した、ただ「もっとリアルに、過激に描写して欲しかった」というだけの感想として理解されていたのかもしれないと思うと、残念でした。たしかに、性的暴力描写についての書き込みの時のように、製作者の描写抑制への配慮を評価する、あるいはただタブー破りだからすごいというのではない、といった付言をせず、「戦争描写がなおざりになっている」という批判をしていた感はあり、全くの誤解とはいえないので、反省もあります。ただ7-10話あたりについての批判は、ただ人の残酷な死としての戦争を描けと言っていたのではなく、どうにもヘリウッドが「ただ悪すぎる」こと、そして対するザリバースのあまりに牧歌的に過ぎる描写に違和感を感じたためでした。一方にヘリウッド、他方にこれって、あまりに非現実的なんじゃないだろうか、と。ですから12話の抑制表現には3話同様に感銘を受けつつ苦痛も想像しましたし、逆に13話にさらっと描かれた、脱走の途中の戦闘によると思われるヘリウッド側、囚人側双方の死者の描写には衝撃を受けもしました。以上、後言い訳です。
 あと、「リヴァイアス」の黒田洋介氏へのインタビューも載っていたのですが、その中で氏が「蝿の王」を参考の一つにしていることに触れつつ、単に同様の破滅劇を指向するのではなく、現在紆余曲折はあれ形成されつつはある「世界的なモラル」を作中に盛り込む意志を示しておられることに非常に感銘を受けました。
 大地氏、倉田氏、黒田氏、どなたも「エヴァ以降、ただタブーを破り、陰惨さを暴露すればいいって感じになってる」と時折揶揄されるような安易な態度ではなく、エヴァの影響はともかく、熟慮の上で独立した作品を作っておられることがよくわかる記事でした。だからすべてを受け入れるというわけにはやはりいかず、自分が作品を見た上で得た批判点は譲れませんが。
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(No.1725) toshi-yk 題名:比較論パッチ 投稿日 : 2000年2月12日<土>23時16分
 あと「今僕」とリヴァイアスの性的暴力描写から受ける印象の違いについての追加。「リヴァイアス」が描写を二話に分けているのと、両作の演出意図の違いも大きいと思います。「今僕」と比較すれば、「今僕」はサラの登場が前話の最後、そこからシュウとの交流、シュウの「絶対大丈夫だ」というせりふからサラ連行、戦闘シーンとそれを観察するシュウに視点を移すことで行為描写は省略し、最後の放心シーンまでを一話で描いています。加えて、着衣が乱れて放心状態のサラの描写(間接的描写とはいえ、きつかったです)を最後に持ってくることで、性的暴力が行われたことをこの話の最大のテーマとして強調する演出をしているように思えます。
 対して「リヴァイアス」は、前話に先立つ数話にわたって確執が描かれたうえで前話において事件がおこったのですが、前話ラストのシャワーシーンから、性的暴力に考えを巡らせた人は少ないのではと思います。僕はあおいのせりふもあり、身体のどこかにひどい傷を付けられたのだろうか、という憂慮をしていました。それが今話、イクミの行動と元気なころのこずえの映像のシャッフルの中、性的暴力の表現は、復讐に向かった先の部屋の様子、彼が男に制裁を加えているという非常に間接的なレベルにとどめ、かつ「ひどいことをされた」という情報が前話の描写で視聴者に与えられて一週間の猶予があったので驚愕は削減され、かつ予想を外されたことでも減少(作品の描写のみでは読み取れなかった人も大勢おられるようですが)。
 ここまでがオープニング前の一分程度の部分で表現されている。しかも、その最後には演出の力点はイクミのトラウマに移されています。本編でもしばらくイクミの混乱が描写され、その後再びこずえにお鉢が回ってくるも、受けた傷を自分の願望の実現のために利用しつつ、別の人間を傷つけていることで彼女の被害者性は薄められ、そこから演出の力点は幼なじみ三人へと移っていく。こずえの事件がそれのみで完結せず、こずえ自身を含めたさまざまな人物に波紋を広げ、新しい出来事を生産している。これがサラのようにはこずえの事件が印象に残らない原因かと思います。ただ僕としては動機にはちょっと?なものの、「今僕」とは別の意味で重いと思いました。個人的にはどうしても昴治への、つぎにあおいへの感情移入が先行していますが。ちと他作品に偏りぎみな書き込みですがご容赦を。
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(No.1726) toshi-yk 題名: 投稿日 : 2000年2月12日<土>23時24分
 あと、相対的にですがこずえの事件とは無関係なツヴァイの瓦解の描写が本編の最初に挿入されてアクセントになってますね。そのあとにも主要メンバーの描写の間に挟む形で何度か。同一空間内での別次元要素の同時進行、「今僕」にも感じましたが、感心します。
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(No.1727) NASTY@2人完了今3人目名前は有栖川樹璃 題名:ありがとうございました 投稿日 : 2000年2月13日<日>01時43分
久城さん、toshi-ykさんレスありがとうございます。

自分の感じた違和感に明確な形を与えて頂きました。

>久城さん
>妖しいゲーム
webからのプラグインで髪型とか増えてます。
ウ○ナの次は何のキャラで行こうかな?

>toshi-ykさん
>彼女の被害者性
以前ミシェルについてMINEさんへのレスでも言及したんですがその辺も含めてなんですよね、今僕と較べて描写が軽いと感じたのは。
彼女等にとってその傷を埋め合わすに足りる存在・目的(イクミの愛・ブルーへの復讐)が存在する分サラの傷より軽いと感じます。
作品テーマの描く主たる目的であった為に深く掘り下げられたサラと比較すべきではないのかも知れませんが。

>アニメージュ
興味があるので買ってみようと思います。
普段はニュータイプの人なんですが。(^^;

>管理者様
BBSの趣旨と外れた発言だったかも知れません。
失礼をお詫びします。
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(No.1728) 天野 題名:今僕とリヴァイアス 投稿日 : 2000年2月14日<月>02時37分
今僕とリヴァイアスの比較が色々為されていますな。
私としては、リヴァイアスの暴力描写は今僕とは比較にならないほど陰惨なものと感じました。2日放送のリヴァイアス(こずえが悲惨な目に遭う回)を観た直後は立ち上がる事も出来なかった。こういう絶望的な脱力感は今僕では終ぞ感じる事は無かった。そしてただ陰惨なだけでなく、今僕とは比較にならないほど「誠実」だ、とも感じた次第です。以下はその説明。


今僕においては暴力行為(非人道的行為)に対する明確で批判の余地の無い批判精神、言うなれば「良識の目」なる救いがあったが、リヴァイアスにはそれが無い。絶対的な「良識」などは存在せず、個人の良心や善意は余りに力不足で、暴力行為は余りに無批判に、淡々と描かれている。私にとりリヴァイアスが今僕よりも重要な位置を占めているのは、四面楚歌な状況下で自己批判を繰り返しながら平和を求めて非力に抗う昴治の描写が、絶対的な「良識」を、さらに推し進めるなら「正義」を背中に背負い、何の疑いも無く堂々と誇り高く木刀を振り回すシュウの描写よりも誠実だと感じたからである。昴治には確信を持つに足る正義も無ければ力も無い。シュウが彼の哲学における「正義」の履行を目的に、「正義」に基く義憤を燃料として行動していたのに対し、昴治は「皆でうまくやっていけたら」という個人的な、自分でも奇麗事と理解している願いを抱き、少なくとも自分にとって最も大切な人を何とか護らなければという、切迫した、また個人的な、シュウのそれと比べれば卑近とも言える必要に駆られて行動している。
9日放送の回における彼は、例え自分への露骨で危険な暴力の行使を止める為の威嚇目的にでも暴力を用いなかった。昴治はシュウなど及びもつかない理想主義者、或いは現実主義者である(暴力による暴力の打倒、暴力行為の統制は実際には極めて困難で、殆どの場合更なる暴力を生むに過ぎないという現実を理解出来る分別を持っているという意味で)。
昴治の今後の行動には喝采(今僕ではシュウは英雄となった)や正義(シュウは自分の哲学における正義を堂々と履行完了した)や問題の根本的解決(今僕では、世界の癌であったハムドが死んで「いいヒト」や「ハムドに操られていたヒト」ばかりが残った、ように描写された)があるとは考えにくいが、もとよりそれらは現実には非常に実現困難な事である。リアリティという観点からすれば「悪の根源/世界の癌を気分よく打倒し、世界に平和をもたらして英雄となった少年の話」よりも「悪が偏在する閉鎖空間で非暴力主義を貫こうとした(が、今は結局どうなるかは不明)少年の話」の方に軍配が上がるのは当然だが、見た後に、「実質的な」「何を」得られるか、という観点からしても、後者の方にこそ実があるのではなかろうか。


そのうちこの辺の論考はまとめて片割れのメールマガジンに掲載します。

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