久しぶりの書き込みです〜。Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Windows 98; DigExt)
どうも、へっこみ具合からだいぶ回復しました。
さて、監督が何を考えているのか、直にあってみませんか?
7日、大隈講堂にて、14時より、監督の講演会があります。
おそらく、今僕の今回の話しについてもでるのではないかと
思いますが、宣伝口調で申し訳ありません・・・・。
監督に会って、何とかこの気分を晴らしましょう!!
では・・・
http://home.catv.ne.jp/dd/yoga147b/
問題の第3話について「アンケート」を行っています。Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Windows 95)
アンケート項目は10です。
議論の多かったものから選んでいます。
現時点でどのような感想を持ったのかを
ぜひ記入して下さい。
第4話が放送されると意見が変わってしまう
かもしれないのでとりあえずお急ぎください。
最終話付近で、またやると思います。
全体の意見がどう変わっているか
楽しみだとおもいませんか。
アドレスは
http://www.geocities.com/Paris/Musee/8398/index.html
第3話,ものすごい反響ですね.でも,この反響こそが,大地監督の目的ではないでしょうか.その企み(悪い意味ではなく)にまんまとはまってしまったわけですね.Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Windows 98; DigExt)
例の表現について,問題の消化を求める意見もあるようですが,大地監督は本作品をシリアスものと位置付けていましたでしょ.シリアスものというのは,問題提起という側面を持っていると思うんです.それについて作品内で答えを出すことは,作者の考えの押し付けでしかないと私は考えています.だから,あの問題を作品内で消化する必要はないんです.消化してもらう方がわたしは嫌です.問題を消化するのは視聴者個人個人ですよ.人それぞれ違った価値観があるわけで,それぞれの消化方法があると思います.同じ大地監督作品「こどものおもちゃ」をご覧になっていた方はお分かりでしょうが,大ラスの中尾君事件,千石先生がやめましたが,あれで全て解決したとは誰も思っていないでしょ.あれと同じですよ.
まぁ,賛否両論あるでしょうが,最後まで見てみましょうよ.批判はそれからでも遅くないですよ.それと,他人を中傷するようなカキコは,読むに耐えません.「この作品と同じことをやっているだけ」と言われる人には作品を批判する資格は無いと思います.ここにカキコする人はそれなりに分別のつく人だと思いますので,少しお考えになってカキコしてください.あずき色時代からのお願いでした.でしゃばってすみません.
http://www.ddt.or.jp/~tra7345/
どうも、エイシャぞなというもんです。Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Windows NT)
いろいろ3話に関しての反響が返ってきていますね、
これは、かなり凄いことだと思いますよ。
表現いかんにしろ、心に訴えかけてくる何かが
こんなに反響が返ってきているのだと思います。
とりあえず自分が言えるのは、
手のひらの上で踊らされてみませんか?
これは、製作者の表現を、そのまま、素に受け入れ
最終的に、どうなるのか、毎週その回の話を
楽しみにしながら見てみませんか?
という事です。
まだ始まったばかりなんだから、この先をどうこう言うより
その時その時を、確実に自分のなかで、消化させる事を
しろってことです。
作品を、「起」の内に見るのを止めるのはどうかと思うよ。
こういう作品は、最後まで見て、考えないとならないんでないの?
見ざる聞かざるは、何も生まんよ。
とりあえずさ、受け手なんだから、どっしり構えて受けてたとうよ。
http://www.age.ne.jp/x/eisya/index.html
アンケート内容を修正しました。Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Windows 95)
本当にすみません。
事実上項目を1つ追加してしまいました。
現在までに記入された方で追記をご希望の方は、
「連絡用掲示板」の方にご連絡下さい。
第3話アンケート
http://www.geocities.com/Paris/Musee/8398/index.html
性暴力シーンの議論について、否定派と肯定派の両方にずっと感じていた違和感が分かってきたので、Mozilla/4.04 [ja] (Macintosh; I; PPC, Nav)
長くなりますが書き込みます。
この違和感が、一回の書き込みではすっきりせず、議論を追って定期的に書き込みを続けてきた理由なので。
初期の議論では、性暴力の描写が許せない/戦争だからそんなこともある、というかなり極端な対立。
最近ではあのシーンが「理不尽な世界の表現のためにとられた手法」という見方を肯定派、否定派ともに採用したうえで、その是非が問われている。
共通しているのは、事後からの解釈であること。また批評概念や作品全体への先入観が先行して、
個別の映像に立ち止まっていない。これが僕が感じていた違和感の原因です。
まず、戦争=理不尽な世界をうまく表現できてるかという採点基準は曖昧で乱暴すぎます。
世界表現の手法という抽象的な演出技法としての理解で代替案を探したり設定を援用して擁護したり、
はたまた傷の精算を要求したり、稚拙と決め付けたりといった解釈、論評の前に、
まずもっと単純に映像で提供されていることを見て、あの場面独特の怖さを感じるのもいいのではと。
あの性暴力が僕らから見て理不尽かどうかはおいて、ともかくも当地の権力に肯定され強制されたこと。
僕自身も背景描写が足りないと感じ、書き込みで指摘もしましたが、それはあくまで程度の問題、二次的なこと。
逆に今では、むしろ映像だけによって簡潔に戦争犯罪の本質的部分を表現していると思えるようになりました。
上官の命令で兵士が連行するという描写で、国家の認可を受けた命令だという最低限の表現はきっちりしているわけですから。
これでもう被害者の感情、観察者の解釈はともかく、少なくともその場では理不尽にならない。
事後からの作品の整合性の解釈ではなく、あの状況に身をおいて働いている力を想像してみてもいいのでは。
行為の後ではなく、上官の指示から直接の加害者に引きずり込まれるまでの映像に集約されている状況です。
(僕は放映時、牢から連れ出された時点で性暴力行使の可能性を念頭に置きました)
また、理不尽を連呼するのに反対する別の理由は、その言葉が単にレッテルであって何事も現さないから。
説明したように見えて、実際は被害者と加害者それぞれの具体性を消し、結果的に問題をあいまいにする。
国家側の人たちもそれぞれ合理的な自己正当化の論理をもって行動しているでしょうし。
だからこそ事前の抑止が大切になる。
この怖さと難しさとを事前の状況で集約的に表現している点で、性暴力という題材の導入、
厳密には上記の映像表現にこだわっていたのです。あとは行為描写の隠喩化に安堵し、事後の描写には・・・
精神的外傷が本人次第で治癒しうるといういくつかの書き込みに賛成です。
あと、性暴力の描写を始めとした何か一つの要素が作品全体の印象に強く影響している人たちに。Mozilla/4.04 [ja] (Macintosh; I; PPC, Nav)
僕自身性暴力の権力構造のみにこだわり過ぎていたのでいくつか。
第一話とのギャップについては、僕は同時に連続性も感じるんです。
シュウが壁にぶつかっている点において。第一話も平和なだけじゃなくて悲しい話だと思うんですが。
ララ・ルゥとの出会いも、へこんで子供の頃に一番でいられた場所につい足が向いてしまったのがきっかけだし。
同時にあえて割り切るシュウと演出のスピードのおかげで、必要以上にじめつかないところもよいです。
のむら了さん、作品全体を「全然大したことない」と一蹴するのはもったいないかと。
これだけ登場人物間の感情の機微を映像的に繊細に表現した場面の多い作品はそうそうないと思うんですが。
単純な人間が複雑な反応をしているそれぞれの場面を独立して観賞するのも一つの手かと。
別の見方の提示であって、皆さんそれぞれの見方を否定するものでないことをお断りします。
PACの会報の中に「今僕」の声優、監督の取材記事がありました。Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Windows 98)
それを見ると、スッタフ、声優みな嫌悪感はみじんにも感じてる
様子はありません。一生懸命に楽しくやってる感じです。監督も
また楽しみ、苦しみながら作品に取り組んでいます。
「今僕」の1話1話に水戸黄門的なクライマックスを求めることは
できません前13話を1つの大きな作品としてとらえるべきです。
そして全部終わった時点で改めて考えるべきです。3話のあのシーン
だけで「今僕」のすべてを決めつけるのはまだ早すぎます。
>その世界でしか意味を成さない、生きていけないゆえの、2次元の創造物であるがゆえのリアリテイがあるのだと思います。Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Windows 98)
確かにその通りですね。アニメなどのキャラクターは作品世界における描写が存在の全てですから。作品中で不幸なまま終ったら、受け手が救いを感じるのは困難至極です。
>そう見方が心の奥底にあるからアニメのキャラが長く愛され、実写の肉体的な痛みを直に感じ、アニメキャラの精神的なダメージに敏感に感じるのだと思います。
私が思うに、だからこそ不幸な描写も必要なのでは、と。
>なんか今回真面目だぞ、どうした自分!
作品に真面目に取り組むのはいい事ではないですか。
>スタッフには限りない不幸ではなく、限りない幸せで「生きる」を書いて欲しいです(←ものすごい奇麗事でまとめてみました)
限りない不幸を描くからこそ限りない幸せも描けるというものではないでしょうか。あるマンガの名場面で、他人の不幸をヘラヘラ笑う人間に対して主役の男(歴戦の軍人)が「俺は幸せそうに笑う奴が許せねェんだ、たたっ殺すぞ」と怒鳴る、というのがありますが、このキャラクターは酸いも甘いも噛み分けた人物で不幸の意味を良く知っているからこそ、作者はこう言わせている訳です。
不幸の意味を知らないキャラクターが幸せそうに笑っても、それは人に感銘を与えるでしょうか?
>toshi-yk様Mozilla/4.04 [ja] (Macintosh; I; PPC, Nav)
>作品全体を「全然大したことない」と一蹴するのはもったいないかと。
その通りですね。言葉が過ぎました。謝ります。
個々の描写や表現は かなり水準の高い物です。全然大したことあります。
監督を始めスタッフ一同がんばってお仕事なさっている事は 画面からも充分感じ取れます。
だからこそ、それ故に、収まりの着かない感情が自分を支配している事も感じています。
無論これからも見続けます。この溜飲の下がらん事を願って…。