あけま〜〜(^_^)m(__)m さあて 年越しそばを食べよう(T_T)Mozilla/2.0 (compatible; MSIE 3.01; Windows NT)
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>佐藤@komabaさんMozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.5; Mac_PowerPC)
ダメでしたか。それじゃ推薦した僕なりに中傷を。僕は登場人物と距離を置いた見方をとっているので、感情移入の可否を重要視するあなたの参考にはならないかも知れませんが。
違和感の残るシュウの行動描写についていくつか挙げておられますが、一つを除いて同感です。大地監督には自然や元気な子供に対する無条件に強い愛情があるようなんですが、そこから来ているのであろう一話に濃厚に漂うノスタルジーには僕も今一つ入り込めなかったので。
ただ、シュウのあのペラペラについては、彼が日本の現実の中で既にそれまでの生き方を拒絶する壁にぶつかっていて、その状況に要請された切迫したコミュニケーションへの飢えとしてみることができるので、感じるものがあります。剣道部の小田に対してもああした話し方をしますが、それがマネージャーと小田との無言親密空間になんとか割り込もうというチャレンジでもあったように(失敗しましたが)。だから夕日の中で半泣きのシュウにララ・ルゥが笑いかけるシーンなんかとても好きなんですけどどうでしょう(個人的慨嘆・・・このララ・ルゥはいずこへ?)。
僕も基本設定や演出の教訓臭には違和感を感じています。MINEさんの書かれているようにシュウはあれでいいと思うんですが、行なわれている戦争の必要性について観る側に判断の余地がない(おまけにハムド以外どいつも嫌そうだし)のはほとんど致命的ではないかとすら思っています。が、それでも、戦争テーマを正面から、しかもよりにもよって日本の中学生を戦争に放り込んで「ここ」と「そこ」との距離を描くという困難な形で採り上げたというだけでも、僕には観る理由として十分ですし、製作者の方々を応援したいんですよね。それでも批判はするし、正直なところどうしても貶しがちになりますが、それを通じて自分の思考を対象化できますから。
それに大局観を放擲したような個人や人物間の会話中心の描写から、基本的構図の退屈さを逸脱するインパクトを受け取っています。だから例えばハムドについては、単に「あれが彼なんだろう」というふうに観てます。行動原理は一貫してますし。彼が狂気かどうかの判断や、彼を悪役に仕立て上げようとする演出はカッコにいれて、とにかく「私の、私による、私のための平和」に邁進する彼の物語内部での動向に注目する、と。
そして、こうしたテーマを選んだ以上、設定や演出がどうあれ、話の展開には必ず製作者が意のままにできないような凄惨さを入れざるをえませんし、それを単に悪者の悪事扱いして(まあ悪事なんですが)一方的に説教をかますことが目的になってしまえば、正しいだけの不毛な作品になる可能性が高い(その意味で、女性性を利用されたサラがヘリウッドでも反ヘリウッドでもないシュウと同様のよそ者なので絶対的な被害者になってしまっているのもやはりまずい)。「いけないことだからダメ」は自己保存その他それを凌駕する別の理由があればたやすくひっくり返るんで、戦争を否定するにせよちゃんとリスクを引き受けた判断としてやってもらいたく、それがいかに描かれるかを見届けたい気持ちもあります。ああ中傷の矛先が別のほうに。
最後に、明けましたねおめでとうございます皆さんやりますねそば無いMINEさん内部事情がリークされているのでしょうか?
>内部事情がMozilla/2.0 (compatible; MSIE 3.01; Windows NT)
(゜o゜) (=_=)ブッ(血)〜〜 (笑) そば おいしゅうございますた(T_T)(笑)
http://www.ceres.dti.ne.jp/~mine-
私にとっての痛みについての理念と、あとMine氏のMozilla/4.08 (Macintosh; I; PPC, Nav)
「がいーん」とか「一話では」などを受けてのフォロー
です。
痛みを感じる作品作りというのは過去のログでも言及
されていますが、私もそういった作品には強く惹かれま
す。 しかし、一般のアニメの中ではムチで打とうが、
ナイフで切られようがあまり痛そうに見えません。結果
として、痛いんだよと主張するためにどんどん過激な表
現をするようになるのかも知れません。
しかし、そんな方向しかないのでしょうか?もちろんそ
うではないと私は信じているわけです。
ところで、視聴者としてはやはり、本作品についても、
より過激過激と求めているのでしょうか?12月31日
の投稿で Mine氏曰く
>おいらは絶えずこの作品に その ハラハラした刺激を
>求めているところがあります。 ゆえに つまらなく感
>じた話もあります。
過去のログにも 上のように「もっと刺激を」とか「ま
だまだぬるい」といった発言が多く見られました。しか
し、その刺激というのはいったいだれの基準について刺
激的なのでしょうか?シュウにとってですか? それと
も作品の外に住んでいる視聴者の基準に照らし合わせ
て、ですか?
作品の中で ある刺激がどの程度視聴者にとって刺激的
か、というのは、ここでの議論のために便宜上わけるな
らば、
基準1・私たちの「現実」から類推する「常識や感覚」
に基づき、それを作品に外挿する
基準2・作品世界内での「常識や感覚」に基づきそれと
比較する
(*外挿するというのは外から作品内に持ち込むとい
うような意味だと考えてください)
のようになるのではないか?と考えます。
基準2については、例えば、もしノルマンディー上
陸作戦を果たしたミラー少尉(プライベートライアン)
がヘリウッドに行った場合には、おそらくハムドやその
部下の行う行為は少尉の基準からみてそれほど酷いもの
に見えないかもしれません。すくなくとも顔を殴られる
などは屁でもないでしょう。
(実際、プライベートライアンの最初の27分の過酷な
戦闘シーンを見た後ではどんな熾烈な戦闘シーンもその
作品の中では、あまり刺激があるように見えなくなりま
した。)
一方で、水色時代の優子嬢がいきなりヘリウッドに
いったらどうでしょう。ほっぺたを殴られただけでもか
なり「非日常的な事だ」という印象を優子嬢にも、そし
て、優子嬢と一緒に歩んできた視聴者も感じるのではな
いでしょうか?
続く・・・・
続きです。Mozilla/4.08 (Macintosh; I; PPC, Nav)
さて、2話でシュウがムチで打たれたり、3話でサラ
が強姦されたりするシーンが大きな刺激を与えたようで
すが、それは、今までのログを見る限り基準1の視点か
らの刺激でしかないように思われます。
そして基準2についてはそもそもシュウにとっての日
常というものがあまり描かれていないということ、ある
いは日常と非日常との敷居値がシュウの「日常的世界」
では、私が住んでいる「日常世界」よりは、かなり高そ
うなこと、などからあまり利用されないだろうと思って
います。反対の人もいるかも知れませんが、ちょっと考
えてみてください。いったい1話でシュウが住んでいた
世界では、どのような倫理、感覚、人付き合いがいわゆ
る常識だったのでしょうか?すくなくとも私の世界とは
だいぶ違うな、とは思いましたが、いずれにしても、私
には今ひとつよく分かりませんでした(*注1)。
私は常々作品は その作品内世界を構築することに
よって私たちが住む世界とはある種独立しうる程の、ひ
とつの世界感や感覚、倫理などをつくりあげることがで
きるのではないか?と思ってきました。見るものはその
世界に浸っている内に、その世界独自の「常識」「普
通」にそまってしまうのではなかろうか?例えば、人差
し指で相手を指すことがものすごく恐ろしいことだと思
いこんでしまったり(ボディ・スナッチャー)、いつも
とは違う駅で降りることがものすごい冒険になってし
まったりする(Shall We ダンス(注2))のではないか
というわけです。
その3へ続く
続きですMozilla/4.08 (Macintosh; I; PPC, Nav)
で、まぁ長々といってきたものをまとめるなら、
「痛みを効果的に伝えるにはその世界の常識や感覚が見る
ものにとって、極めて身近に感じられるように「世界」を
作り上げる」
のようになる次第です。で、最初の
「狂った世界に入り込めたか?」の投稿に
戻るわけですが・・・
今僕という作品についてなら、まず、シュウの日常
について入り込める程に描きむことによって
ヘリウッドにたどり着いてからの人々の痛み
がその世界の中での感覚としてより強くつた
わってくるのではないか? 痛みを効果的に
伝えることができるならば、むやみに過激な
方向にシフトする必要などないのではないか?などと
考えないではいられません。
(過激過激なほうこうにシフトするというのは
それが実際に起こりうるかも知れないという世界の存在
の重さを失わせる原因になっているのでは?と
考えているというのがありますから)
長文失礼しました。 以上です。
(*注1)例えば、1話で、ララルウをみつけたシュウ
が煙突に昇っていき、あれこれと勝手に話しかける。私
が住んでいる世界では、そのようなことをするのにはか
なり大きな一歩を踏み出す必要があるのではないかと私
には思われます。いわゆる私の住んでいる身の回りの常
識的からみて、いくら可愛くても初対面の女の子の後を
追っかけたり、なれなれしく話しかけるのは失礼ではな
いかと考えるかも知れません。
(もちろんそれが世界全ての常識だというのではありま
せん。)
ちなみに、Mine氏は
>おいらはこのシュウの現代は、 なんとなく
>受験戦争の枠にはまらない 地方の工業地の
>ある70年代の、ヒーローもの特撮とかが人気の
>頃の日本の子供とゆー気もしなくないですねい(^_^)
>ちょうど、監督や脚本家の幼少にすごした時期のよう
な。
とのべていますが、これは第一話の日常についての描写
から推測する、というよりは作り手が「これを手がかりに
使ってね」と投げてよこした煙突などのシンボル的な情報
から、それぞれの視聴者のもつ「70年代な
らこうだろう」という知識や感覚を外挿している、と解
釈できそうです。
(*注2)映画「Shall We ダンス」では 帰りの電車の窓から
見える、ダンス教室の美人の先生をずっとみて、次第にあこがれ
が高くなっていく、でも実際に会いにいくまでにはいか
ない、という好奇心と臆病な部分がないまぜになった極
めて身近に感じるエピソードを丁寧にえがいており、こ
の演出によって私は役所浩二に一気に入り込んでしまっ
たものです。その彼が、ダンス教室のある駅で思い切っ
て降りようとする、文字通り平凡な「日常」からの逸脱
の瞬間は、だから私にはものすごく気持ちよかった。
「いつもと違う場所で電車をおりる」・・レイプや殺人
に比べれば刺激なんていうものではないでしょう。でも
たったそれだけのことが、私にとってこれほど大きなカ
タルシスにつながったのはやはりそれまでの日常の描き
方によってわたしがその世界へと入り込んでいたからで
はないかと思えてなりません。
Mine氏の 第一話では・・について少しフォローです。Mozilla/4.08 (Macintosh; I; PPC, Nav)
>人間関係や思想、趣向、日常などで複雑に陰と陽の
>からんだリアルな子供を出すと、親近感とゆーより
>嫌悪感とか、 あと 素体が多すぎて
>しぼれなくて 困惑することもありえるので
>おいらはかえって良かったような気がします。
それは描き方の問題だろうと思っています。上の引用文については、Mine氏はエヴァのシンジのようなイメージがあるのかも知れませんし、確かに映画の冒頭でマスターベーションを示唆する映像に嫌悪を感じた方もいるでしょう(単にマスターベーションをしてるだけでなく、その場の状況が状況なだけに)。しかし、それはあたかもそれをすることがものすごい罪悪であるかのように扱っているから、というのがあるのではないかと思います。
手淫にふけることは多くの男子がやっていることですが、アニメではほとんど扱われたことはありません。しかし、罪悪というよりは日常的に行っているごく普通の出来事という扱いを注意深く演出することによって、みるものが親近感を覚えるような仕草の一つになりえるのではないでしょうか?実際漫画には手淫を若者の一つのルーチンワークとして捉えているものもありますし。(「ピストン君」などがそれにあたるかどうかはともかく)
ま、極端な例ですけど。 以上
なんだかどかどかと長文を投稿してもうしわけないです。Mozilla/4.08 (Macintosh; I; PPC, Nav)
私は先の投稿「狂った世界に入り込むには?」や他の投稿で、作品の理念として「考えさせる」あるいは「感じさせる」というのを挙げていますが、tosh-yk氏のフォローをうけて、このような視点から作品についてちょっと述べさせてもらいます。 toshi-yk氏の1/1の投稿「新年長文一番乗り」についてtoshi-yk氏 が「距離を置いた見方」と呼ぶものがどのようなものなのかについて、私は詳しく知りませんのでそのことについて比較するようなことは避けるべきなのでしょう。が、それを 「他人事として傍観する」という意味だと考えるならば・・・
主人公あるいは脇役の住む世界に入り込んだ場合に得られる作品との一体感は、他人事だと思ってみている場合のそれとはやはり大きく異なる場合が多いのではないでしょうか?。そしてある種の問題を含む作品を小学生高学年から中高生に見せたいとおもっている場合、作品の中の出来事や主人公の動向が他人事としてみえてしまうよりは、自分に身近な少年と共に一緒に歩いているかのように思えた方が、「考えさせる」という意味でも大きな効果があるのではないかと思われます。
また、この作品では酷い状況は描写の積み重ねでじわじわと来るというよりは、むしろ作り手のほうが最初から「酷いんだよ」と演出で高らかに主張しているように見えます。でも、シュウでもだれでもいいんですが、視聴者が、登場人物と世界を共有しているくらいの一体感を得ている場合には、そのように作り手が主張しなくても自ずとそれについて視聴者自身が感じ取ることができるのではないか?と私は考えるのです。(これは先に投稿した「痛みを伝えるには・・」で触れてますね)
また、toshi-yk氏は、
>戦争テーマを正面から、しかもよりにもよって
>日本の中学生を戦争に放り込んで「ここ」と「そこ」との距離を描く
とのべています。このテーマについては大賛成です。ただ、「ここ」をどのような意味でもちいているのかよくわからないのですが、私については本作品には「そこ」はあっても「ここ(シュウの住んでいた世界といういみで)」がどういうものか見えてきませんでした。ですから「ここ」と「そこ」の距離が今ひとつ感じられない。
toshi-yk氏は「ここ」を自身が住む場所に置き換えているのかもしれません(下図A)。が、それならなおさら、シュウがいわゆる「日本の」中学生という記号でしかない場合よりは、極めて身近に感じる「日本の中学生」だった方がシュウにとっての「ここ」と視聴者(とりあえず私)の「ここ」との距離が縮まるのではないか?と思うわけです。
一方「ここ」がシュウの住む日常世界ならば(下図B)、まず「ここ」がどんなところかを 見るものが馴染んでしまうまで描写することが必要だったのではないでしょうか?でなければ、「ここ」と「そこ」との距離を描こうとしたとしてもそれがうまく伝わらないのではないでしょうか?
とりあえず以上です。
図1:A「ここ(視聴者にとっての日常)」 → 「そこ」の距離を描こうとする場合
この場合 「ここ(視聴者)=「ここ(シュウ)」 VS 「そこ」 となるべき?
B「ここ(シュウにとっての日常)」 → 「そこ(戦場)」の距離を描こうとする場合
この場合は「ここ(視聴者)」≠「ここ(シュウ)」でもいいと考えてます
>佐藤@komabaさんMozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.5; Mac_PowerPC)
うーん、作品の自律性を評価の基準にした精緻な分析・批判ですね。今までの書き込みには無かった種類のものでなんだかすごいなあと感心する一方、「今僕」を評価しているのにあなたが批判されてる点に多くの部分で同感なことから、自分がどれだけ「今僕」に対して自律性を評価基準から外した見方をしてるかというのがよく自覚できました。
ともあれ、「あなたとは見方が違う」で一蹴するのはもったいなく、しかし全ての書き込みに対応するのは僕の能力を越えているので、僕の書き込みへのへの反応である書き込み「「ここ」と「そこ」の距離、視聴者の「ここ」とシュウにとっての「ここ」との距離 」に焦点を絞って答えさせてもらいます。とは言え、先に書いたようにあなたの意見自体にはほとんど同感なので、どうしてもあなたの議論に正面から反論するというより、「わかるけど、でも・・・」式のぐにゃぐにゃしたものになってしまいそうですが。
僕の「距離を置いた見方」を「他人事として傍観する」として理解されていることについては、OKです。なんか冷酷人間みたいですが間違いじゃないからいいです。そして「ここ」ですが、僕はこれも単純にシュウの世界=自分の世界=「ここ」として観ています。あなたの図でいえばA図の方ですね。
そしてそれらの部分の描き方に対するあなたの違和感には、正直同感です。シュウの行動には共感しづらいこと、一話の環境描写には身に覚えの無いこと甚だしい部分、そして押しが強く、加えて製作者の意図に偏向しているように思われる演出や描写一般の特徴には解せない部分が多々あります。ハムドについても、単純に狂人としてみせたかったというよりは、一方で軍事的解決を選択してひたすら邁進し、他方で失敗に脅え甘えさせてくれる女性にめろめろに頼ったかと思えば怒り狂う非常に八方破れな人物として描いているということで、少なくともステレオタイプな独裁者ともやたら有能でかついい人な敵役とも一線を画しているので面白がってはいるんですが、同時にこれじゃギャグなんじゃないの?という危惧を抱いています。ギャグが悪いというのではなく、この作品が他の部分ではギャグを意図的に封印しているようなので。
僕個人について言えば、これらの怪しい部分を柳に風のごとくとはいかないまでも受け流しているのは、おそらく傍観的姿勢も一役買っているのでしょう。正直、感情移入を第一とする人が見て面白い作品なのかどうかということは、僕には言いきれません。そういう見方をする能力自体を欠いているのだから、面白くないと断言する資格もないですが。
が、しかし。先の書き込みで書いたように、シュウが様々な「そこ」の人間(便宜的にサラも含めます)に対するときの逡巡とその結果選んだ選択肢に「ここ」のリアリティを感じるのです。例えば、三話で不安ヒステリー状態のサラに執拗に今後の予測を強要されて、そんなことがわかるはずも約束できるはずもないのに、「絶対大丈夫だ」といってしまう。この言葉はその後の展開で否定された後から見れば、「そんなことは予測不可能だ」と突っぱねるなり、「覚悟しといた方がいい」と心理的防衛を促すなりといった他の選択肢に実効性において劣るように思えるけど、それでもあの時の対応として、「サラを安心させたい」という目的においてそれなりに妥当なものだったと思い、そこに共感します。Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.5; Mac_PowerPC)
むろんその選択はやはりこの世界では事後的には単に間違いであり、そして話が進むにしたがって、シュウは持ち前の脳みそとは別の次元にあるらしい自分の則にしたがって行動しながらも判断に自信を失っていきます。それでも十話現在では不殺の信念を心理的にも行動的にも守っていますが。三話までしか観ていないあなたに十話まで視聴している視点から反論するのは筋違いでしょうが、状況描写の不足や個別場面の演出といった技術的部分の欠陥(と僕も思います)を補って余りある(と僕は思います)会話や行動の選択といった基本中の基本の部分へ注目し、そしてそれを連ねて展開される物語を追っていく長いスパンの視点を要求する作品だということを指摘しておきたいのです。