肝心の本題です。僕のあなたの書き込みへの興味は、主としてサラについての部分です。大地監督のこれまでの作品をほとんど見たことが無いのでその前の書き込みには書くことが無いことに加えて、僕とあなたの「今僕」視聴姿勢の違いが如実に現れているので。つきましては佐藤さんの適切な配慮に倣って丸々コピー。女性の方、あるいは年少の方には強姦についての不愉快な表現がなされているかもしれません。ご注意を。Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.5; Mac_PowerPC)
あなたは、サラの強姦の演出が一方で綺麗すぎ、他方で彼女の妊娠に至る展開において不幸表現それ自体が目的化している、という指摘をされているのだと理解します。コウモリだと思われましょうが、僕はまたもやほぼ同感です。前者は部落差別などで問題になる「被差別者を差別しつつ美しく表現する」差別肯定表現のバリエーションという批判をされても仕方がない。この場合は、サラを「穢された少女」として悲しく美しく表現するやり方ですね。類似の演出は以降にも登場します。ネタばれはまずいですが。加害者をことさらに汚らしく表現しているのも同様でしょう。
ただやはりあなたと違うのは、僕がそれらを感じつつも、僕が三話のサラの強姦描写に強い反発を感じること無く受け入れられたこと。理由として挙げられるのは、総体として僕がサラに起きた事態を他人事として捉えていることからの、戦時体制による女性性の利用の表現という先入観の補助と、スタッフの抑制への配慮への感嘆・賛同、加えてサラの登場がそこのみではなく、物語の中でさらに行動するからです。その行動も受動的被害者として描かれるのではという危惧はありますが、それも一つの方向でしょう。サラは苦痛を受け、それに苦しむ。
ともあれとりあえず作品を全体として受け取る僕としては、そこから強姦描写や望まぬ妊娠への苦しみのみを切り離して、その美化を指摘し、悲惨をより直截に効果的に伝達する観点からオルタナティブを考える、不幸表現そのものの目的化を指摘するといったことは、表象批判として高い意味はあることは理解できますが、そんなにこだわっていませんし、三話の強姦表現がTVアニメだから意味を持った程度のもの、とも考えません。むしろ作品をきっかけにして勝手に色々考えます。それだけで作品の描写をとりあえず肯定できる。それと、既成の作品との類似性の指摘で全てを片付けようとする見方(「これって、「未来少年・・」でしょう」)は論外としても、この掲示板で行なわれていた類似部分の指摘は、個人の感じ方ですから止められるものではないと思います。
ただあなたの指摘は面白かったし、他にも以前にも書いたのですが、戦時体制による女性性の利用を表現する役目を担わされているサラが、味方どころか敵なり占領地なりの出身ですらない、完全なよそ者、おまけにコーカソイドのアメリカ人なことについてはどうなんだろうと思うのですが、海外への放送の場合も考えた結果でしょうか。ともあれ、海外への放送の際には、日本人(便宜的にまとめます)とは全く違った、受容者によって様々な作中の人種イメージ使用への反応がありうるでしょう。もう一つの疑問だった他の同様の境遇にある女性の存在の有無については四話以降に言及がありました。ああこれは僕の疑問です。とりあえずこの辺で。
>佐藤さんMozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.5; Mac_PowerPC)
今重大なことに気づいたので追加です。今回の佐藤さんの書き込みには特に僕の書き込みを引用したところも、僕の意見を求めているところもないですね。またもや早とちり。となれば僕は自分の側の興味によってのみ佐藤さんにレスを返しつつ、「長いお付き合いはできない」などと暴言を吐いていることになる。今度は本当に申し訳ないです。近ごろどうも独り相撲気味だ気をつけないと。
とはいえ、もし佐藤さんが僕の今回の書き込みにレスをつけて下さったときは、僕の側からはそれへの返答、レスなしでも書き込まれたときは書ければそれへのレスで今回の意見交換をいったん区切るという意志に変わりはないので。むろんレスの強制はしません。言い訳を付け加えれば、僕は掲示板での議論を容認するスタンスを採っているのですが自分については行き過ぎの自覚が芽生えたので自制しようと思っているのです。それと、佐藤さんがその後新たな書き込みをなさって、それが僕の興味を引くものであればまたレスをつけさせていただくでしょうし、逆に僕の書き込みに佐藤さんがレスをつけて以下同文その時はどうぞよろしくお願いします。
>MINEさん
>視聴者の中には、暴行も拉致も村での横暴な行動も この作品の中の出来事で、ストーリーの味付けとしか思わなくて
>実際の戦争の陰の部分と比較したり考えたりまで行ってないんではないかなーって感じてしまいます。
>そうだと ただの嫌悪感を感じるだけのものでしかない、としか思っていないかもしれないなあと(゜o゜)。
やっぱりそれありえるでしょうか。その場合は「お前にゃ戦争を知ろうという知性がないのかあ!!」という内容を遠回しに砂糖菓子化して説得・・・する必要はないでしょうね。人それぞれでしょうし。でもやっぱりその程度のことを読み取る知的基盤がないのはまずいとは思います。
>今俺さん
>無抵抗で自分含めて100人殺されるよりは、武器を持って抵抗し、
>そのおかげで自分含めて10人だけ殺されるのなら、その方がいいのかしら、とも思ったりします。
>いずれにしても、死んで当然という状況に放り込まれる人たちがいるというのはなんとも哀しいことだ。
そうですね。だからこそそういうゼロサム状況にならぬよう(なるときゃなるんでしょうが)各種の予防措置が必要なのでしょう。そうなってしまったことはそうでしかないし、終わった後から事前に遡行してオルタナティブを考えることも大切だけどせいぜい参考程度にしかならない。戦争は、特定社会の自己保存に則するはっきりした利益と成算があると考えられるから実行される(社会の中身を巨視的に見れば戦争に負う危険と報酬の配分の不平等は隠すべくもないですが、それは社会の必然でしょう。もちろん個人的に非社会的人物のサボりはOK、やばいかな)。逆に言えば、行なわれている戦争を抑止したいなら、根本的には戦争がもたらす利益を上回る共存の構図を考えなきゃいけない。難しいですね。状況は総体としては少しずつましな方向に動きつつあるように思えるのですが、日本にいるからそう思えるのもあるでしょうし。
そこいくと僕が「今僕」に対してどうにも不満なのは、シュウのまともな取り道が反ヘリウッド強硬派と共に戦う事しかないところなんです。ほんとにどうなるんでしょう。
佐藤さんへMozilla/2.0 (compatible; MSIE 3.01; Windows NT)
レス(:シュウというキャラクター その1)ありがとうございましたーm(__)m(^_^)
>共感・身近 よかったなぁ
うーん、無いです。 まるっきりってワケではないと思いますが、例えばストーリー中に表れるセリフとか。 あ… でもないか。 ミリタリー色の強かった高校ん時なんかは映画のランボーに触発されてたかなー(゜o゜)(笑) 1ん時は小学生でしたけどねい。 その高校ん時は曲聴きながら 夜、全身黒ずくめの軍服着てライトつけずに山林を3kランニングしてた事がありました(どひ〜)。 え? こーゆー「映画見終わった後の主人公なりきり現象」じゃなく?(笑)。
「萌え」や「作品の中のキャラに感情移入」とゆーのも対象外とすれば・・・ 無いですねい(T_T) ちょと佐藤さんのに沿うようなものは無い気がします(T_T)(T_T)。
なお、ランボー1のラストの泣き叫びながらのシーンは 未だ辛いもんがありんす。感情の起伏のはげしー涙もろいおいらには(゜o゜) エンディングの曲もねい。(うひ〜)
(原作では山小屋で死んじゃっているんですけどねい)
http://www.ceres.dti.ne.jp/~mine-
ふと今思ったのですが、おいらが語る「シュウはマンガらしいマンガキャラ〜」、これですね たとえば シュウ=アニメキャラ、ハムドの世界=現実世界として、 現実世界の枯れた世相にさらされ苦悩するアニメキャラ… って、だめだこりゃ(T_T)。 失敗です(T_T) いや なんとなくこ〜〜ねえ(^_^;。Mozilla/2.0 (compatible; MSIE 3.01; Windows NT)
ありゃ また変なのよぎった。 実写にセル塗りでアニメカラーな人物が重なり合うアイゼンボーグが(笑)
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toshi-yk さんへMozilla/2.0 (compatible; MSIE 3.01; Windows NT)
>まずいと思います。
同感です(T_T)。がんばれ青少年達よう(T_T)〜
*** モニタごしにセンチメンタル ***
このBBSで この作品と実際の戦争、映像とかの書き込みが多くありましたが、 逆にドキュメンタリーの映像も作りによっては「映画を観ているようだ」になるのでしょうねえ。 実際、この前 テレビでケントギルバートが硫黄島のドキュメント映像を観てのポロリこぼしてました。(テレビゆえのリップサービス?かもしれませんが)
作りによっては… そう、例えば、ナレーションもなく、途中に映像の割り込み(その戦争に関わった人がその戦争の出来事や感想を話すとゆーものとか)がなくするとかとかとか。
でも まあ これも このBBSで語られたことに追随してるもんですけどねい(T_T)。ブラウン管ごしの仮想体験に慣らされた悲しい部分とゆーか…。 そいえば、カメラマン(報道VTRも含め)はカメラごしだと危険な現場も普段以上に近づけるって言ってた方いましたなあ。
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どうも 色々と迷惑をかけたようで申し訳ない。私としても、新年の放映前に一段落済ませたいので、ちょいと駆け足になっていますが、まぁ気楽にいけるように気を付けます・・・くどくどと長文を載っけてる私がいっても説得力ないかもしれませんが。Mozilla/4.08 (Macintosh; I; PPC, Nav)
で、toshi-yk氏の「反論未満」に対してのフォローです。2つあって、メタ作品的な状況も含めた上での本作品の位置づけ。もう一つは3話で氏が述べているシュウとサラとのやりとり。です。まずはサブジェクトにもある3話の会話についてです。
その前に・・と、
>今重大なことに気づいたので追加です。今回の佐藤さんの書き込み
>には特に僕の書き込みを引用したところも、僕の意見を求めている
>ところもないですね。
toshi-yk氏は以前の書き込みを見る限りでは物語に対しては構造的ないしは構成から評価を行っているようでした(それだけではないでしょうが、重きをおくのが・・)。かたや、私がいちゃもん付けているのは非構造的な側面ではないか、という認識がありました。また、no1110で氏は既に私が述べようと思っていたことを簡潔にまとめているように思われる叙述もあり直接氏にあれこれ言うのは釈迦に説法になるのでは、という危惧もあったというのがあります。というわけで、とりあえず私の言いたいことをいっておき、それのフォローの中にとっかかりになる争点を見つけた段階でフォローをしていこうというのが私の戦略でした。そしてMine 氏にしてもtoshi-yk氏にしても構造的な分析については特にコチラが何か述べる余地を見つけることもできませんでしたので、今までのようなある種言いがかり的な書き込み方になったというわけです。
なお、フォロー云々についてはそちらの判断を尊重します。
ところで、私も感情移入云々は別にして作品に触れている場合もあります。例えば、トライガンではヴァッシュがなぜ不殺に拘るのかはわからないものの、そのために生じる様々な決断は興味をもって相対していました。キャラクターがナニを考えているのか判るかどうか、というよりはやはり「彼を殺さないと村人が殺される、それでも彼を生かしておくのか?」などの難しい選択にバッシュがどう立ち向かっていくか、を見ていたわけですね。それがtoshi-yk氏のいうところの「距離を置いた見方」と同じなのかどうかは判りませんが・・・。
さて、本題です。 3話のサラに対してシュウが「大丈夫」などと確信もないのに言い切ってしまうことに対して、toshi-yk氏はMozilla/4.08 (Macintosh; I; PPC, Nav)
>それでもあの時の対応として、「サラを安心させたい」
>と いう目的においてそれなりに妥当なものだったと
>思い、そこに共感します。
と述べているようです。実をいうと私はみていてそんな事は「なんだこいつは」という以外まったく考えもしなかったことであり、この文章を読んでなるほどと唸ったものです。シュウのどこか欠落しているようなコミュニケーションのあり方をキーワードに据えると、シュウとサラ、シュウとララルウとの関係もまた別な構造として見えてくるかも知れませんね。例えば、ララルウは居心地のより理念としてのコミュニケーションのメタファーだ、とか・・・。シュウがララルウに拘ることをこのような構造解析によって新しい視点を与えることはできないでしょうか? toshi-yk氏?
とにかく、興味を引かれたのでこのシーンをもう一度見直してみました。いや、たしかにこのシーンとそれ以降の展開は構成(あるいは構造)としてはよくできていますね。シュウがサラに安心させようとあれこれいうわけですが・・
「大丈夫 何とかなる」 → 「全然大丈夫じゃなかった」
「生きていれば 絶対いいことある」 → 「生きていたことをむしろ後悔するような生き地獄を味わう」
とサラと見るもの意表をつく、という意味合いでは非常に効果的なセリフとなっているようです。ひょっとしたら、ここで、シュウにちょっとした冗談を言わせて二人を笑わせたらもっと効果的だったでしょうね。でも、なんか引っかかる。最初に見たときから気になっていたのですが、シュウがサラにしゃべっている時に違和感が・・・。というわけで、更に何度かみてみましたが、3度目で、ようやくそれが判りました。リアルタイムで見ている方には常識だったかもしれませんのですが、敢えて重複を恐れず言わせていただくならば、
続く
続きです。 で、3度目に見て思ったのですが・・Mozilla/4.08 (Macintosh; I; PPC, Nav)
「シュウの顔がきれいになっている・・」。
シュウは2話の終わりにはボコボコにされて、顔もあっちこっち膨れ上がっていました。3話の冒頭でもまだ腫れはひいてはいませんでした。ところが、サラに「大丈夫だよ」といっている最中にどんどん顔がきれいになっていき最後には頭のたんこぶ一つのこして痣もほとんど目立たないほどになってしまっている。確かに、ボコボコの顔で「大丈夫だよ」といっても、サラにも(そして視聴者にも)全く説得力ないでしょうね。「あんたその顔でいってもダメだよ・・」ってなぐあいに。サラを安心させるためにシュウが言ったせりふの数々はシュウの顔がきれいだからこそ生きていたのかも知れません。とするとサラと視聴者の両方に安心と、そして後のショックを与えるために、演出として強引にシュウの顔の痣を目立たないようにしてしまった・・などと考えると「大地監督、おぬしもワルよのう・・」とか言いたくなってしまいますね。
後、これは「リヴァイアス」という別な作品との比較ということになり、あまりここではふさわしくないかも知れないのでフォローの判断はそちらに任せますが、シュウがサラに「大丈夫」といったのと同じように、先も見えてこない状況下において、リヴァイアスのイクミはコズエに「大丈夫 、俺が守ってやる」といってました。どっちもある意味では無責任な発言です。が、前者を私は初見の時は単に唐突に感じただけでなのに対して、後者ではイクミが自身も不安を抱えていながらそれでもなお女の子を安心させるために言い切ってしまう、その辺の苦渋を彼と共感できたように思えました。私が、今僕という作品に入り込みにくっかったのは、このリヴァイアスという作品にもみられる状況とその描写、というのが既に頭のなかにあったからかもしれません。このようなことは他の方は感じた事はないのでしょうか?或いは本作品との構造的な比較ではどうなるのでしょうか?ちょっと聞いてみたいです。
toshi-yk氏の今僕という作品の評価は「反論未満」などを読み、それを私なりの言葉で解釈しなおした場合においては、Mozilla/4.08 (Macintosh; I; PPC, Nav)
1・戦時体制という非日常的な状況で起こり得る様々な辛酸な出来事を敢えて表現した
2・そのような状況下で様々な選択肢を与えられた登場人物達が、どのような決断を取るか?
3・1、2のようなものは現在までのアニメではほとんど扱われてこなかった
という風になるかも知れません(異存がある場合には言っていただくと有り難いです)。でもって、この3つについては ・・・そういう評価をしないといけない程にアニメという表現全体はダメになっているのだろうか?などという危惧を抱くものの・・・私も次の2つの点から、賛同したい所です。
a・例えば、私は過去のログでも何度も言っているように、「アニメの中で現代の生々しい若者像を描いて欲しい」という欲求を抱き続けています。それは今のところほとんどかなわぬ事ですが、もしそれをなしえたアニメがあったら、そのことだけでもう座布団10枚あげますね、きっと。また、朝生TVで、数年前「同和問題」を、そして新年スペシャルでは「天皇」について討論を行ったのですが、その評価について「状況説明や討論が表面的に過ぎる」という批判はあったものの「今まで触れられなかったことが公の場で討論する所まで持ち込んだ。今後の草分けとして大いに評価すべきだ」と述べられていたこともあり、先陣を切る作品には惜しみないエールを送るべきだという認識を私が獲得しつつあるというのもあるかもしれません。そんな訳でこのアニメが、ある種の草分け的な存在になり得るのであれば、細かい点での問題がたとえ気になったとしても応援すべきであろう、と考えているわけです。
b・また、私が中高生だったとしたら、と考えたのですが、「ドングリの家」「五等になりたい」などの障害をもつ方がでてくるような作品はあまりに「辛気くさい、ダサい」ということで見るのはやだなぁ、やっぱりコナンの方がいいや、とか思うんじゃないか?と思いました。なんといってもこれらの作品はエンターテイメントとしてはお世辞にも面白くないいでしょうから。(これらの作品が真摯な情熱によって作られているというのは判りますが・・もっとも見ようとおもっても見ることができない状況にあるのでその作品についてこのような事を述べるのはフェアではないですな)。実写には「フィラデルフィア」や「フォレスト・ガンプ」などエイズや認知障害などをあつかいながらも、見事にエンターテイメントとして成立しているものもある・・。
続く
続きです。Mozilla/4.08 (Macintosh; I; PPC, Nav)
戦争についてもやっぱり「後ろの正面だぁれ」や「お星様のレール」などよりは「キリング・フィールド」や「プライベート・ライアン」の方がcoolだ!と思うでしょう(これらは実際にみた私の感想ですが特に中高生にとってはそうではないか、と考えているのです)。中高生にとってのエンタテイメントとして成立していながら、様々な現代の問題を同時に扱える、そんな作品がアニメにも求められているのでは?なんてことを考えると、ある種のリアルさを捨てて、むしろエンタテイメント性を重視したこの作品の作り(そしてシュウのキャラクターについてもMine氏の物語の中に組み込む上での必然性はエンタテイメントとしての属性から考えると極めて妥当に思えます)とそれを実際にTVで放映したことの意義というのは高くみるべきものではないか?とおもう次第です。
ただ、・・・ここからはちょっと言いがかりのようになりますが・・・
aについて、このアニメが今後も現代の様々な問題をアニメで扱うことについての草分けとして機能するかどうか・・はどうも怪しいように思われます。朝生Tvで天皇問題を扱った時もかなり言葉など注意して、いちゃもんをつけられないように慎重な議論の運びをおこなっていました。何事も先陣を切るというのは難しいものなんでしょう(それでも天皇の権威を利用して課税を行おうなどという・・・課税した人を叙勲する・・・馬鹿げた意見もでてましたが・・)。
しかして、このアニメでのレイプの描写については果たして社会的なあるいは作品としての批判に耐え得る程に、そして今後のアニメの一つの指針となるほどに慎重で、なおかつ見るものが考えさせられる様に描かれているかどうか?(だから、先の「レイプは単なるイベントか?」という投稿をしてこの点についての確認をとっておこうとしたのですね。) 私は4話以降の展開を知らないので、それについて私としての答えは出せません。が、過去ログを見る限りではどうも風向きは怪しいように思われます。 もちろん、それは今後の動向をみてから、の話なのでしょうが・・。この辺についても聞いてみたいものですね。