ランボーですか・・。いいですねぇ。Mozilla/4.08 (Macintosh; I; PPC, Nav)
戦争にいったのに人々には蔑まれ、警官
には虐待され、こりゃブチ切れるしかないな、と私も
大いに共感を覚えました。でも1作目では結局人は
殺していない・・いやヘリから落っこちた奴は死ん
でいるけど、あれは一種の事故だし・・。1000人
対1人というキャッチコピーにむかってウソーと叫んだ
記憶もあります。
ところで、2,3はどうでしたか?
1と2以降ではランボーのキャラクターもだいぶ
違うように思われました。これはロッキーも同じで
だから1と2以降では世間でもかなり評価も感想も別れるよう
ですしね。
>利用者の皆さんMozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.5; Mac_PowerPC)
それなりに内容のあるものにしたく長文の度が過ぎる(おそらく過去最悪)かも知れませんが、放送再開前の最期の戯れ言と思って御容赦ください。
あと、佐藤さんの以前の書き込み「サラの強姦は(以下略)」と僕のそれへのレス「佐藤さんへ(以下略)」の中には、現時点ではネタばれの恐れのあるものが含まれているので御注意下さい、ってもう遅いですか。僕も今後についての情報を見ていないので確言できませんが、掲示板で流通していたベールかぶせた情報をついベール剥いで書いてしまいました。十話まで視聴している僕が気づくべきことで、不快に思われた方がいたら申し訳ありません。あと、下記の分析はあくまで個人的な見方の一部であり、他の方に強制する意志のないことを改めてお断りしておきます。
>佐藤さん
前回のレスには高圧的な部分を含ませており、意図的にやっておいてまたもや部分的後悔していたのですが冷静な対応に、それと僕の書き込みを熱心に読んでいただいているようでそのことにも、感謝します。今までの書き込みの態度が戦略だったということで、鑑定癌の無さには感恥します。とはいえ前回お伝えしたとおり、長文によるレスは今回でいったん打ち切ります。と前置いて本題へ。四話以降十話までの部分のネタばれが一部含まれますが御容赦下さい。では以下本題。
前の書き込みで僕の「今僕」評価を
>1・戦時体制という非日常的な状況で起こり得る様々な辛酸な出来事を敢えて表現した
>2・そのような状況下で様々な選択肢を与えられた登場人物達が、どのような決断を取るか?
>3・1、2のようなものは現在までのアニメではほとんど扱われてこなかった
の三つにまとめていただいたので、これを軸にレスを構成したいと思います。
1と3については別の個所での
>toshi-yk氏は以前の書き込みを見る限りでは物語に対しては構造的ないしは構成から
>評価を行っているようでした(それだけではないでしょうが、重きをおくのが・・)。
と合わせて、構造的要素への注目の偏りの指摘として的を射ているでしょう。少なくとも書き込みの多くはそういうものでした。そしてそれに対して、
>そういう評価をしないといけない程にアニメという表現全体はダメになっているのだろうか?などという危惧を抱くものの
というあなたの留保にも、賛成です。というのは、上記のような「現実の問題(1)」なり「ジャンルの発展(3)」なりの作品外の基準を重視した見方は、下手したらイデオロギーの押しつけ(大袈裟ですが)による○×採点式同然のつまらない見方になりかねないということを、注意もしていたし書き込みを続けて来た上での実感としても持ったのに(その割に書き込みに反映されてませんが)加えて、あなたが重視しておられるような非構造的部分の魅力も充分に感じているのです。ただ、そうした部分の魅力を説明するのは、作品の細部に寄り添った文章表現を必要とするので一般的にも難しいことなのに加えて、「今僕」については特別の難しさを感じています。そのため妥協として、
>2・そのような状況下で様々な選択肢を与えられた登場人物達が、どのような決断を取るか?Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.5; Mac_PowerPC)
という観点から注目した個別場面を、構造への評価と非構造部分への評価の間の妥協(他人に論理的にも感性的にも分かってもらえる感想の提供)として書き込んできた、といえます。それにしても新しく付け加えるなら、二話のナブカとの対決で武器を取り換える結果になったさいシュウがナイフを捨て、それを見たナブカが侮辱と受けとったのだろう怒りの表情を浮かべた、すれ違いのところくらい。その魅力について「反論未満X編」の説明は説明になってませんでした。
もう少しましそうなのが、また構造への注目になってしまいますし、前にも掲示板の暇を狙った「埋め草サラ考」で書いたのですが、「今僕」がシュウ以外にも複数の主観を動かしているということです。これは感情移入の困難とも関係することだと思いますし、振っていただいた問いかけの中で最も具体的だと思われる
>シュウのどこか欠落しているようなコミュニケーションのあり方をキーワードに据えると、
>シュウとサラ、シュウとララルウとの関係もまた別な構造として見えてくるかも知れませんね。
>(中略)シュウがララルウに拘ることをこのような構造解析によって新しい視点を与えることはできないでしょうか?
にも関係します。僕の提示する構図が構造解析の名に値するかはお任せするとして考えていることを。一話で分かるようにシュウは敗北失恋ダブル凹みを紛らわすために求めた過去の栄光の地でララ・ルゥに出会い弱さを晒したとこに微笑みを擦り込まれ「助けて」に躍り上がるのですが、この意味でララ・ルゥはシュウにとって、逃避の逆噴射としての義憤による擁護の対象の側面が強いと思います。恋愛対象*0.58でもあるのでしょうが、あくまで不可で無自覚です。よってどうも一方通行で、しかもララ・ルゥはシュウとは別方向にコミュニケーション不全なので受け入れられていない。二人のすれ違いは、朝日(未来)と夕日(追憶)を両端とした直線の上で、中央に現状を挟んで時々位置を取替えつつ向かいあっている感じです。前記のきっかけから見ても来訪以降の上手くいかなさにしても、常にシュウが未来を見ているわけではなく、現状から予測される暗い未来を認識している点ではララ・ルゥは未来を見ている。ともあれ、この二人の対立関係の変化が、シュウの成長物語という物語のオーソドックスな部分(放擲されそうな危惧兼期待がありますが)を担うのは間違いないし、ついでに書いておけば、この部分に僕が無条件に魅かれる非構造的魅力が多いです凡俗なので。具体的には一話と八話。八話には文句もあるのですがもういいです。
それに対してサラは美形ではありますがいろんな意味で生身ですね。相手のことなど考えず安全の保証を迫り、意に沿わぬ処遇を強制されるもシュウの手を借りずに自分で打開して、時を置いて(この期間は掲示板で非難ごうごうでした)大きく変貌した姿でシュウの前に現れる。この意味で、サラはシュウ中心の物語には必要は無い人物だと思います。それを出したのは戦時体制による女性性の出産の媒体としての利用というテーマの表現という理由が大きいのでしょうが、サラの描写は四話以降そうした道具(失礼な表現ですが他の利用者の皆さん含めて御容赦を)のレベルを逸脱していると考えます。
三話時点ではそれでもシュウが単独で目立ってます。が、四話以降、サラに加えてハムドは言うに及ばず少年兵たち(彼等の中でも確執あり)、アベリアとそれぞればらばらに動き始め、しかもそれぞれを描写します(比重の差はむろんあり、シュウ中心な事は確かなのですが、例えば冒険もののように共に行動する者たちをそれぞれ描くのに比べれば、その大変さは明らかです)。まあ彼等の場合はかなり状況に制約を受け手持ちの選択肢が乏しく、そこがかえって不満に思えたりもするのですが。言葉は悪いですが先に述べたようにシュウから見れば餌であるララ・ルゥですら、十話現在に至るまで多少の変化はあれどもシュウと距離を保ち続けている。Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.5; Mac_PowerPC)
そしてそれぞれを描写するということは、描写が散乱することを意味します。シュウがヘリウッドに滞在する期間中、描写をサラなりハムドアベリア&ララ・ルゥなりに振り向けねばならないし、七話でララ・ルゥを伴ってヘリウッドを出奔した後は、ハムドアベリアに加えて少年兵たちも描かねばならない。おまけに村にまで内部分裂、サラも再登場。
シュウの一人称視点に限定するとまでは行かなくとも、もう少し描写をシュウの視点に一本化することで成長物語のフォーマットに乗っけて、感情移入もよりしやすくして上手く流す手もあるだろうと素人なりに思うのですが、そうしていない。僕はそれに「なんでこんな大変な風にわざわざやるんだ?」という懐疑を持ち、そうした外在的な危惧が視聴継続の一要因となっていたりもしますし、ヘリウッド出奔以降の展開は緊張感を欠くようにも思えます。が、複雑化の結果である、予測のつかない描写と展開に引き込まれてもいて、それを肯定的にとれば、いわゆる具体的なという意味でのリアルさとは別の意味でのリアルさを獲得しているように思え、今後に期待しているのです。あなたの重視するエンタテイメント性につなげてまとめれば、「今僕」の冒険活劇や成長物語といったエンターテイメントの要素はシュウ(&ララ・ルゥのパートナーとしての側面)が代表していて、それに絞っていれば良質なエンターテイメントが出来ていたのでしょう。それが戦争を描こうとする結果それを剰余する部分としてシュウ以外にも複数の人物の行動をそれぞれ追うことになり、それは一方でシュウへの安定した感情移入への障害物になっているのだけど、他方で単線的になりがちな物語や人物に様々な陰影を与え、僕はその中での会話が描くものに注目する、と。何か堂々めぐりだし、シュウの人格造形がより感情移入しやすいものならなおよかったというあなたの意見と相反しあうものではないですね。その点には、これまた繰り返しになりますがシュウの能動的コミュニケーション不全とでもいうべき人格の物語上での機能を指摘するより他無いです。
シュウの傷の急速な治癒(「ここはグリーンウッド」の池田光流を思いだします。余談ですが意外だったのがインターネットに「グリーンウッド」のファンページが無かったこと。いい加減昔の作品とはいえ、一つくらいあるんじゃないかと思っていたのですが)については、言語による意志疎通もそうだけどまったく
飛びますが、あなたが様々な作品を指標に「今僕」を思考していることに自分が挙げられている諸作品のほとんどを未見なこともあり感心し、そうした具体的な対象を持つ部分を軸にレスを返せないことが残念です。アニメを比較的観ているのも家でタダだからというのが大きいものぐさ文無しCM物品も買わぬ消費者失格のそれもすぐに観るのを止める僕としては。そんな奴がジャンルとしてのアニメを語れるのかという自己批判は置き、そんな僕が「今僕」と並んで継続視聴している今期唯一のアニメが「リヴァイアス」なのですが、この作品はいろんな点で「今僕」と比較できますね。フィクションとして現実との間に、舞台も閉鎖空間として外部から遮断した上で、質の違う人間どうしの軋轢が重要な「今僕」と違って同質的な登場人物どうしで、心理、舞台共に質の高い描写でリアルを出そうとしている。未来の話なのにミョーにレトロな「今僕」に対して、CGを、しかも作中のコンピューター画面やヴァイタルガーター描写の一部になど、あくまでセルから浮かないレベルに抑えて活用する知的な演出。こっちも好きです。大勢にしゃべらせたり端役を色々用意したりと意図的に様々なノイズを混入させた上に主要人物のセリフまでも断片的な脚本が「同人誌的」と揶揄されているようですが(よく知らないのですが、黒田さんというシリーズ構成脚本担当の方がこうした要素の元であり揶揄の対象であるようですね)、僕はほーと感心してみてます。他方の類似性としては、非人間的神秘が人間の形をとって介在していること(使い尽された感のある科学あるいは疑似科学のみではハッタリが作れないのは、現代SFの宿命でしょうか?)、説明無用のギミックの存在でしょうか。またも余談、以前当掲示板で昔設定談議の中で核融合研究のホームページMozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.5; Mac_PowerPC)
(http://p-grp.nucleng.kyoto-u.ac.jp/fusion/)
が紹介されていたので(要塞ヘリウッドは核融合でエネルギー作ってるようなので。説明無いですけど)見てみたのですが、各種の知識の説明はあれど、「もうすぐ出来ちゃうよ?どうする?」って感じの熱気が感じられないのが残念だったのを思いだしました。下々の質問に答えるページも立ち腐れてたし。なにがいけないのか?素人目ですが理論はそれなりに整っていたようなので(というかそれしか書いてない)、機材を作る技術力が無いのか、金がないのか。金なら「虚構税」つって、虚構内部で核融合使って悦に入る生産者と消費者両方から税金取って制作費用に・・・今じゃ「ARIEL」くらいからしか取れそうにないですね。「今僕」は説明無いから言い逃れ脱税されるでしょうし。さらについでですが天皇税に叙勲ですか?・・・未見ですがそういうのが上手くいかなくなってきたという現状認識からそういう討論してたんじゃないんでしょうか、その中でその発言はある意味すごい。
最期に、
>ただ、・・・ここからはちょっと言いがかりのようになりますが・・・
以降の意見について。
現実の描写やそれを通じたジャンルとしてのアニメの発展のきっかけを「今僕」に期待してるのは山々なのですが、作品が完結していない現時点では時期尚早でしょうし危険でもありましょう。追随者の有無は