ララ・ルゥは結局、誰だったんでしょうか…Mozilla/4.5 (Macintosh; I; PPC)
彼女はどうして、50億年後の地球に生まれてきたんでしょうか…
シュウは ララ・ルゥのことが好きになったんでしょうか…
謎が多いまま終わってしまって、疑問に思う部分が多いですね…
WOWOWでノンスクランブルでやっているアニメは絶対に、3ヶ月で終わってしまい、回数も13回しか放送されません…確かに13回でも理解できるところは理解できるんですけど、どうしても無理矢理に終わらせようとした感じしかしませんでした。かなり面白い作品だっただけに残念で仕方ありません。
なぜ半年間しか放送できないんでしょうか…課長王子も見てましたけど、あれも最後は無理矢理終わらせたとしか思えません…
TVで放送しろとは言いませんから、小説やマンガで解決していただけるとありがたいです。
それではまた…
はじめまして、こんにちは(こんばんわ)。KIKOです。Mozilla/4.06 [ja] (Win95; I)
この掲示板は「あの有名な3話」を見終わった頃からロムってました。
「今、そこにいる僕」を最初から最後まで見てから考えたんですが、
僕が思うに、ララ・ルゥは水城瑞穂さんが同じような事をおっしゃっていますが、
地球の生命の源である水そのものではないかと思います。
人(知能を持ち、意思で本能を抑える能力を持った生命)のあまりの愚かしさに
地球上にある水を一旦ひきあげ、凝縮して現れたのが、ララ・ルゥじゃないかと思うんです。
だから、言ってみれば地球そのものみたいな存在で、「50億年後に生まれた」と言うのは
少し違う気がしました。また、「自分の力を解放して姿を消す」という表現もありますが、
僕は、自分そのものである水を解放した事で姿が目に見えないほど薄くなってしまったと感じました。
薄くなってしまっただけなんで、皆の周りに常にいて見守っていると解釈しました。
ただ、いくら人が愚かしい存在でも、それ以外の生命にも必要な水をほとんどすべて引き上げてしまうのは
少しやりすぎなんじゃないかという気もします。まぁ、「ストーリー上必要だから」と言えば
それまでなんですが。
あと、物語の終り方にもいろいろ意見があってロムっているだけでもなかなか充実した
時間を過ごさせてもらっているんですが、僕の意見もせっかくですから書き込ませてもらいます。
僕の意見としては、やっぱりシュウの「今、ここ」に戻ってきてからの描写がほしかったように
思います。彼の生活があの体験を通してどのように変わるのか、彼の社会への見方がどのように
変わったのかがやはり見たかったですね。
でも、彼はあの世界でさえ最後まで意見を変えなかったくらいですから、戻ってきてもあまり変わらないような
気もするんですが。
それからサラの事なんですが、犯された子供を産むというのはストーリー上とはいえ、
無理があったように思います。なにがあったにせよ、あれだけの精神的打撃を被っているわけですから
堕ろすのが普通だと僕は思います。シュウの(シュウは最後までサラに何があったのか知らなかったと
思いますが)発言も傷口に塩を塗るようなものだと思いますし。
「ここ」の世界のサラの家族への連絡もシュウはしそうにありませんし。
サラについてはエリさんと近い意見かもしれません。
あまりまとまっていませんし、人によっては「こんな意見違う!」と言われるかもしれません。
ただ、「今、そこにいる僕」を見ている間、いろいろ考えさせられました。
もう監督の思うつぼって感じですね。
大地監督、及び「今僕」製作に関わった全ての方々、ありがとうございました。
出来るだけこの書き込みに対するフォローはします。
始めにMozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.01; Windows 98)
>水城瑞穂さん
なんか同感なところが多いです!嬉しい!!
勝手ながら次のサラについてのカキコも楽しみにしてます!!
>スパニッシュさん
私もその後について夢の中でいろんな形で考えてます。
だから、スパニッシュさんのオリジナルストーリーが読めてよかったと
思います。
ここからは、私が今僕の最終回を見終わってから毎日のように
見ていた違った最終回の夢をちょっとを書いてみたいと思います。
(夢の始まりはだいたい最終回の後半から)
ララ・ルゥによってヘリウッドの中は水で満たされ
その中で必死に子供を守り、水に流されている人を
ザリバースの生き残った村人と共に助け出そうとしているサラ。
水が入ってこない部屋を見つけ、そこにみんなを非難させていた。
そして、ある一人の少年兵を引き上げる。それはナブカだった。
横腹から大量の血を流していたので息はないと思っていたサラ。
すると、かすかに手が動いた。なんとか傷口を押さえながらみんなを非難させている
部屋まで運び、簡単な応急処置をする。
かすかにナブカの目が開き、その先に見たものに目を疑う。
前にいたのは、ブゥと、スーンだった。もちろん、二人も応急処置をされ
寝こんではいたけれど生きていた。それだけで涙が止まらないナブカ。
・・・・・・・・・
そして、最後。シュウもみんなが生きていたことに喜びを隠せない。
しかし、本編と同じく元の世界へ帰ってしまうシュウ。
ララ・ルゥと眺めた夕日をみて自分は「ここ」で生きていこうと決意を
固め走り出す。
次の日、また剣道の試合に出て負けてしまうシュウ。
それをみてまたシュウを指摘する小田にナブカの面影を感じながら
夕日に向かって元気よく帰ってゆくシュウ・・・・・。
まるで、ララ・ルゥに「自分は元気だ!」と呼びかけているかのように・・・。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++
おおぉぉぉ!!!!なんか話まとまってない上に絶対にあり得ないことばかりが!
でも、その辺は夢で見たってことで許してください・・・。
夢なんで書かれてないところは
きっと本編のままってことでしょうね。
しかし、私はここまでナブカを生かしたいって気持ちがでかかったのか
あんなにまともに撃たれて生きてるなんてね・・・。
まぁ、ちょこっとハッピーエンド(?)って感じで・・・。
あ、あとほんとのとこどうかわかんないけどシュウが帰ってきたときは
ララ・ルゥと一緒にさらわれたあとすぐで時間がたってないということで。
ああ、批判がこわいが意見などがあったらメールでどうぞ。
これを見て怒りがこみ上げてきた方本当にすいませんでした。
6話で,サラが兵士を殴り殺し,その事から嘔吐をするシーンがあります。その後サラは兵士の服をきて脱走するのですが・・・・。Mozilla/4.7 (Macintosh; I; PPC)
このシーンは,砂漠に出た後,兵の服を脱ぎ捨てることにより,ヘリウッドという支配から自由になることを,髪の毛を切ることによって女性であることを捨てる,ということを,そしてナイフを地面に突き立てて捨ててしまう,ということが暴力との決別を,ある意味では象徴している,という風にも私には感じられました。ここは6話の冒頭の兵士を殴り殺す部分と比すれば,・・少なくとも私には・・あまりにも「キレイ」過ぎるのでは?と感じられました。
今僕という作品の中には妙に生々しいシーンが多々みられますが,こうしたシーンがあるにも関わらず,それと平行してあまりにも枠にはまりすぎているように感じられるシーンも多々あり,そしてあえて言うならば(8話までならば)今僕という世界そのものを形作っている要素から導かれる「予測される出来事」よりも「物語の枠組みから予測される出来事」の方が優先されている,という風に感じないでは居られませんでした。それは3話でシュウがサラに「大丈夫」という時の言葉,とその顔の腫れ具合しかり,先述した6話でのサラの逃亡シーンしかり,です(この辺はtoshi-yk他の方が過去のログでも述べていることですね)。
しかし,私はやはり男性であるという束縛から逃れることはできません。6話についての先述した(特に,砂漠での)シーンについてについて女性としてはどのような感想を抱いたのかお聞かせいただければ幸いです。自分ならばどうするというのでも結構です。
ちなみに日本映画「女が一番似合う職業」「裸足でピクニック」では犯罪者に妊娠させられた主人公はともに出産をえらび,後日談としてたくましく生きている姿が描かれています。不幸のつるべ打ちのひとつとして強姦,妊娠,という経緯をたどった女性がとる決断については,フィクションについてはおおむねひとつしか選択はないのでしょうかね?。
過去ログで、シュウは結局暴力でハムドを倒して(?)しまったとMozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Windows 98; DigExt)
どなたかがおっしゃっていました。
確かにシュウは木の棒を力いっぱいハムドに叩きつけていました。
でもよく考えると、シュウの手だって痛かったと思います。
私が取ってる授業(育児学)で、先生は「子どもをしかる時はアタマを
叩くのではなく、お尻を叩け」とおっしゃいました。
なぜなら、ゲンコツは子どもだけが痛いけれど、お尻の方は
叩いている親の手まで痛いからです。
子どもと同じ痛みを感じる事によって、親は「この子はこんなにも痛いんだ」
と心を痛めるそうです。
だからシュウにもハムドの痛みは分かっていた・・・
もしシュウが銃でハムドを倒していたら、シュウはハムドの痛みを
知ることができなかったでしょう。
そしてハムドをあんなに親みたいに叩く人は今までいなかったと思います。
そう思うと、私はシュウがハムド(子ども)を叱っている親のように
思えてなりません。
(ごめんなさい、かなり意味不明な文になってしまいました)
●ナプカについてMozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Windows 98; DigExt)
私にとっての「今僕」のすべてでした。私「今僕」は友達に『君の好きそうな少年が出てるよ』と進められたのがきっかけでした。(その友達は「今僕」の世界観にひかれて見ていたようです。念のため)
十二話の予告を聞いてナプカの死は覚悟していましたが、やっぱり実際にその場面を見るといたたまれません。あんなに故郷へ帰りたがってたナプカ。十二話でブゥが「そんな事して帰ってどうする!?」みたいな事を言ってましたが(あくまでうろ覚え)ナプカは頭のイイ子です。きっとそんな事わかっていました。わかっていた上で「どんなことをしても帰らなければ」という想いを半ば使命みたいなものにかえ、人を殺していたように思います。誰よりも「帰りたがってた」ナプカ。でも、その夢が叶わないと感じたときどんな気持ちでシュウに「帰れ」と言ったのでしょう?(おそらくはココの皆さんが書かれていた事と同じだと思いますが)あのシーンは何回見なおしても涙がこぼれます。でも、有る意味家族(?)のもとへ帰れたナプカ。結果的には幸せなのかな。
私、正直にいっちゃいますと実は「今僕」の真ん中あたりの話をごっそり見てないんです。大体一話〜三話、九話、十話、十二話、最終回と言った感じです。だから、ナプカがスーンのお父さんを殺すところなんかはまだ見てないんで綺麗事を言ってるだけかもしれませんが、ナプカはシュウに最後の勇気を出させた大切な「キー」だったと思います。ナプカにつきましては押さえきれない想いがまだまだたくさんありますので後日、同人誌でも作ってとりあえず自己満足をすることにいたします。
…「ナプカ」じゃなくて「ナブカ」ですね。スイマセン。Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Windows 98; DigExt)
ちょっと長いですが、サラの処遇を中心に、あまりに製作者に対して配慮を欠くように思える極論が見受けられるので、ちょっと反論を。サラについては、最終話だけに気を取られると押しつけのように感じられるかも知れませんが、サラの出産が発覚した回では、医師が「堕ろすなら早いほうがいい」とオルタナティブをきちんと提示し、シスもこの回では「サラ自身が決めること」としていました。それだけに、とにかく中絶を容認できないシュウとの対比が鮮烈で印象に残った。個人的にはあまり製作者の意図をうんぬんしたくはないのですが、少なくとも製作者はここで選択肢を提示しています。これをきっちりやっているからには、プロパガンダではないです。さらにいえば、「女を子供を産むための道具としてしか考えてない」あり方は、ヘリウッドの論理として、独立して描かれています。これらの配慮を踏まえたうえで、それでも納得いかないところがあるというのならともかく、ただ「中絶反対のプロパガンダ」と非難するのは、明らかに曲解だと思います。Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.5; Mac_PowerPC)
あと、シスの最終話の言葉は、僕としては製作者からのメッセージではなく、客観的な正論ではなく、彼女自身が敷いていた「本人が決めることだから強制しない」という分をあえて越えた、いまわの際の彼女の本音として見たいです。そしてサラは自分で産むことを選んだ、と。
「今僕」が男のロマンを求める作品の一つで、そのために女性が犠牲になるのは耐えられない、というのも、一理あるにせよやはり曲解が過ぎると思います。批判するのはいいですが、製作者の意図を曲解してそれを批判するのは様々な意味で不毛です。アニメで現実的な問題を描くのは無理、子供の見るアニメではみたくないというのは・・・。製作者が作りたいものを作り、様々なものが現れるのはいいことだと思います。自由に作れなかった時代があり、これからそうなっていくかもしれない。個別の作品に判断を下すのはともかく、わざわざテーマ選択の段階に制約を要請する必要はないでしょう。
ともあれ思うんですけど、あんまり「製作者の意図」への反感で「今僕」を切っちゃうのはどうでしょうか。例えば、サラが「こんなことを訴えたい」為に使われたと考え、それが上手くいってない、あるいはその意図が身勝手なものだとして腹を立てるだけじゃなくて、サラがあの世界で選んだ選択を「彼女の選択」として考えてみるのもいいんじゃないでしょうか。ただ「あんなのおかしい」じゃなく。
それと関連して、話題の「裁き」ですが、「裁く」という言葉で、神その他人外の力、あるいは製作者の倫理的基準による「裁き」を想定しているのか、人間の司法機関による「裁定」を想定しているのかわかりませんが、前者の意味なら、世界外の何者か(神であれ、製作者であれ)による倫理的基準に従うか反発するかの二者択一になるので、僕は避けています。彼等は誰かによる罰を受けて死んだのではない、と。それより、ナブカが最期まである意味利己的に故郷へ帰る夢を抱き続けてシュウにそれを託し、カザムは子供を助け、ハムドはただうろたえ破綻し見限られたという、危機的状況におけるそれぞれの行動に注目しています。それぞれ責任はあるでしょうが、それは作品内の人物が問うこと。そこから後者の意味ですが、最終回の時点ではまだ誰も裁かれてはいないでしょう。アベリアは殺されなかったというだけで、何らかの形で罪をあがなうことになるのかもしれません。また、ヘリウッド側の死者たちはどのように記憶されるのか。これらは受け手各自が思うことができます。Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.5; Mac_PowerPC)
僕が思うに「今僕」は、確かに製作者の思想的限界はありますが(と書く僕にも限界があるんでしょう)、その枠内で極力勧善懲悪を排し、状況の中でのそれぞれの行動をただ追い、描いています。ララ・ルゥの存在と力は確かに過剰でしたし、あの最期も理屈を言えば「巫女の犠牲による破綻した世界の安定」のバリエーションでしょうが、それでも各個人の行動を無意味化するほどのものではありませんでした。だから、「メッセージ、テーマ」といった作品外の、固定的で把握しやすいものから「今僕」を擁護、批判する以外に、善行であれ悪事であれ個々の登場人物の選択を思うという見方が出来る作品だと思うのです。例えば、サラはシュウの言葉に納得しているわけじゃないしすべてを許したわけでもないだろうし、シュウも自分の言葉が薄いことを自覚したうえであえてしゃべり、行動している。どうにもならないかもしれない断絶が色々あって、埋める「正しい」方法はわからないがあがき、それぞれなりに埋める。でも埋まらないものもある。そのあたりのつかめなさも僕には「今僕」の魅力です。最後のシーンのサラのほんの少しの笑顔は、シュウの正論じゃなくてシュウ本人に向けたものでしょう。こうしたことが考えられるほど「今僕」に世界を、魅力を感じない、というのも個人の感じ方としてはアリでしょうし、批判もアリでしょうが(僕も同様の批判をしてきたし)、各種の「正しさ」を求めて断罪するだけでは、この作品の見方としてはもったいないように思えるのです。他の方の受け取り方を否定するつもりはないですが、それでも感銘を受けたものとして一言をと。
13話で死に際にシスがサラに語った事は、制作側からのメッセージってのがあるやもしれませんが、 おいらとしては、シス自身(シスならばこう語るだろう)の言葉とも考えています。 よって、視聴者の捉え方で、異見が出るとおもいます。 おいらは以前ここで制作者のメッセージがうんぬんと書きましたが、「このキャラならこう語るだろう」という考えでも もっています。 よって、Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.01; Windows NT)
必ずしも時節にあった語りでなくても良いと。
作品全体のキャラの言動と行動をこれにあてはめていけば、また視聴者の想いも微妙に変わったり、発見があったりすると思います。
おいら自身 物語を考える時は、大まかな概要を立て、後はキャラ達の言動にゆだねている部分があります。 (まあ おかげでまとまりないですけどねえ(T_T)。なんせ 各キャラの人生観、人生史まで書くのでとんでもないのになるし…。)
http://www.ceres.dti.ne.jp/~mine-