今、そこにいる僕
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(No.1551) toshi-yk 題名:しつこいようですがこれで最後1 投稿日 : 2000年1月24日<月>12時28分
 控えると言っておいて何ですが、答えておく必要があると思うので。長いですが御容赦を。

>Tomokiさん

>単純にプロパガンダであるのなら問答無用で駄作扱いしていたでしょう。
>問題は意図しないのにプロパガンダの様相を呈した事です。

 そう、こう書いていただき、その論拠を展開していただければ、僕としても作品への一批判として読むことができます。それを「プロパガンダ」と定義することにはやはり異論がありますが。

>toshi-ykさんは以前から作品をあまり激烈に批判するべきではないと言い、それが製作者に与える
>悪影響を心配しておられますがかえって余計なお世話ではないでしょうか。

 以前からというのがどこを指すのか分かりませんが、単に激烈な批判はやめようといった短絡的な書き込みをした覚えはないのですが。自分自身かなり放映中はかなり徹底して批判をしてきましたし、それで他の方と軋轢を起こしたりもしましたから。最終話直前にもかましましたし。僕が「製作者に与える悪影響」を口にしたのは、たしか三話直後辺りですが、このときは放送停止になるという「現実への、制作環境への直接的な影響」への危惧からでした。製作者の没倫理性を断言的に結論する書き込み、時間変更や放送停止を提案する書き込みがありましたから。杞憂でしたが。それ以降放映中では自分自身が作品にかなり強い批判を展開しており、むしろ他の方からそれを批判されていたのでうまく思い当たりませんが、「僕は正当な批判をしてますよう」と自己弁護する過程で、的外れな批判は駄目だ、掲示板の雰囲気には配慮している、といった発言をしていたことは覚えています。終了直後のあなたの書き込みへのレスは、僕自身がついその数日前に批判を容認する意見を出した上で他の方と意見交換をした手前、あからさまな煽りには釘を刺しておきたかったのです。余計なことだったかなとは思います。そして今回は「プロパガンダ」という批判が「今僕」に適用されうるかという点。今回の製作者うんぬんというのは、第一に「製作者が別の選択肢を描写していることを評価するべき」という、公平な作品分析の提案が主であり、製作者への配慮は従属的なものです。そしてどれも、激烈な批判をすべきでないといった「程度」、「量」の話ではなく、批判の「質」に言及しています。そして、きっちり論拠を掲げて他者の意見に反論しています。
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(No.1552) toshi-yk 題名:しつこいようですがこれで最後2 投稿日 : 2000年1月24日<月>12時29分
>まして彼等には次があるのです。何を批判に躊躇する必要があるでしょうか?。
>また迷惑がかかったとしても出された作品に対して意見が付くのは当然の事です。
>(中略)作品の出来が良くなかったから作品をむちゃくちゃにこき下ろしたとしてもそれは当然の事です。気に入れば何処までも褒めるのも自由です

 には全く同感です。また繰り返しになりますが、どんな批判をなさろうと自由です。

>例えそれが間違っているかもしれないとしてもそれを誰かから批判されこそすれ
>やめなければならないと言う事はないはずです。

 そのとおりです。その批判が的外れであろうと止めさせることはだれにも出来ません。が、他者の批判にはさらされる。あなたが書かれている、それだけのことです。ですから今まで、作品への批判は自由だ、自分の評価を強制はしないと面倒臭い留保をつけつつ、それでもあなたの批判には質的な問題があります、と、あくまでその論拠を明示して対等の立場から批判してきたのです。これを言論封殺と一緒くたにされるのは非常に困ります。
 僕が言っているのは、サラの決断に違和感を感じる人、批判している人は大勢いるようだしそれは全く自由で、僕自身もそうですが、それとあなたの批判のように作品内の描写を「プロパガンダ」とすることは違い、それは作品評価として不当だ、ということです。とはいえ、上に書いたようにTomokiさんの今回のもののような、「結果としてプロパガンダになっている」ことをきちんと論拠を展開して説明する批判なら、「プロパガンダ」という定義さえカッコにいれれば、一蓋に頷けないとはいえ一つの別見地として参考に出来ます。しかしさらに逆接ですが、それでもあなたの強い批判が僕にはどうにも解せない。この違和感が、あなたの意見を批判する原因になってもいます。それにしてもあなたの言論を封殺するつもりは微塵もなく、むしろそういうふうに受け取られないように努力したつもりなのですが。「フォロー1」は少し語調が強すぎた感がありますが。

>>残念ながらこの作品は結果的にあまり良い評価を受けなかったというのが最終回の前と後の書き込みの傾向を見れば一目瞭然ですが、

 僕自身批判すべきところはあれ評価すべきところはあれって感じですが、掲示板の論調は激賞する人批判する人灰色な人、どれにも片よらずって感じで、そこまで低評価と断定できるほどではないと思いますが、

>二度と彼等の作品を見たくないと言った人は小数だったはずです。つまり今後に期待するという人がたくさんいたと言う意味では成功だったのではないでしょうか。

 これはそうですね。次回作は個人的趣味のストライクゾーンからは少し外れるのですが、少なくとも「今僕」の後番組よりは。あれはビーンボール、もといバックネットへの暴投なので。
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(No.1553) toshi-yk 題名:しつこいようですがこれで最後3 投稿日 : 2000年1月24日<月>12時32分
 と、ここまでが言い訳です。僕があなたの言論を封殺しようとしていたのでも、批判の量的規制を提案していたのでもなく、あくまで批判の「質」を問題にしていたことが理解していただければいいのですが。とりあえずプロパガンダうんぬんの指摘は今回で終わりにします。が、これだけで終わっては寂しいので、あなたの作品への感想に対する異論を提示しておきます。是非を問う議論にするつもりはないです。あと、「問答無用で駄作扱い?」の1と3に作品への感想が分散して書かれているので、僕の判断で離れた部分をまとめて扱っている場合もあります。とりあえず最初に、

>作者としては精一杯努力したのでしょう。しかし努力して作った結末で感動的でもあるから突っ込みを入れるなというのは無理な話です。

 には全く同感ですし、

>その口を塞ごうとするのは例えどんな形であっても受け入れる訳にはいきません。

 という意図では一切ないことをもう一度お断りしておきます。サラの出産ですが、プロパガンダかどうかはとりあえずおくとして、

>はっきり言って決断への過程そのものが安易なのです。死んでいく人間がいまわの際に
>「産め」と言ったからそれに心を動かされて産んだという描写自体が情動主義的で真実味にかけると思うのです。

 僕としては、シスの言葉も要因、きっかけとして大きいでしょうが、それより、逃避行中の経験の方を重要視しています。その中でも、サラが「自分より弱いもの」としての子供たちに対し進んで言葉をかけた経験を。一番印象に残り、理由付けとして重要視もするのは「大丈夫、大丈夫だから」、次にヘリウッドの子供への「あんたたちもおいで!」です。あとヘリウッドの子供を助けたカザムの死ですね。
 さらに付け加えるなら、十二話です。連れ去られるシスを見て自分の無力を思い知るような表情をし、ララ・ルゥと取り換えれば解決するというエランバナイズな発想で迎えに来るも強硬派からララ・ルゥをかばうスーンを見て泣きそうな表情をする。「ガキども」と心配するシスに、見に言ったのはシュウとスーンでサラは声を上げるだけ。ララ・ルゥを連れ去ろうとするエランバに罵声を浴びせ、取りかえそうとするも出来ず諦めの表情。ある意味十二話というのは、自分のためだけに行動し逃げ出してきたサラが、他者・状況に対する自分の無行動・無力を痛感する回でしょう。その上で何かできることをしたいと思ったのだろうか、と考えています。あくまでも傍証で、だから出産は完全OKと言いたいのではないですが。

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(No.1554) toshi-yk 題名:しつこいようですがこれで最後4 投稿日 : 2000年1月24日<月>12時34分
>非常時の人間の良心的行動を見た事で子供を産む決意をしたのならそれがこれから続く日常で続く可能性は極めて薄いからです。
>何にしても極限状態の判断と言うものはその場において正しいと思っていても後でしまったと思う場合が多いのです。
>そういう状態のときに「産む」という判断をしたからといって説得力にかけるのです。
>多くの人がそれに対する疑問を投げかけているのです。

>もしもっと真面目にこの問題を描く気があったなら八話でトレマーズもどきしてないで
>サラの妊娠についてせめてまるまる一話使って戦乱のどさくさに紛れてではなく日常の状態で決着をつけておくべきだったと思うのです。
>そうでなけばその日常に生きる我々を含む大多数は「あれは極限状態だからああいう判断をしたのだ」と思われても仕方がないと言う事になります。

 というのは、僕にとっても傾聴すべき別見地ではあります。八話への違和感を共有するだけに。それでも僕は上に挙げたような経験が描写されているので納得しているし、続いていくのではと考えています。戦乱という状況下でも、本人の経験であり、決断ですから。こういう書き方をするとまた突っ込まれそうですが、この点はMINEさんが書かれているような感情移入を僕も採っているものとして御理解いただけたら。Tomokiさんも感情移入の禁止を分析に限っておられるとのことですから、分析への介入には異論があるとはいえ御理解いただけるでしょう。

>これは中絶反対かどうか以前の問題の不満です。これまでの文章だといろいろゴミが入って
>わかりにくかったかもしれませんがこのアニメへの不満はそれに尽きます。

 うーん、ここは人それぞれ、両論併記としておくしかないですね。不満を持つことは理解は出来ますし(繰り返しますが、僕にも別のものですが不満はいくつもあります)、翻意を強制はしません。
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(No.1555) nasa 題名:考えたこと 投稿日 : 2000年1月24日<月>12時39分
これから私が書くことは、変かもしれませんがどうか御了承を。

最終回を見て。
人は死に、哀れな王も死んだ。結局誰も幸せになどなれないのか。
始めからその方法はどこにもなかったのか。戦争で幸せになれるものなど
いないのだと思う。

シュウは何を思い、これからゆくのだろう。
でも、終り方が、シュウたちのその後を描いていなくてよかったと私は思う。
ひとによってとらえ方も違うと思うから。
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(No.1556) toshi-yk 題名:しつこいようですがこれで最後5 投稿日 : 2000年1月24日<月>12時41分
 次は中絶問題ですが、この点では僕も本人の選択を尊重し、状況によって中絶を容認しますから、あなたの書かれている中絶容認の理由には特に異存はありません。ですから、どうして僕宛のレスに これを書くんだろうというのが分かりませんが。僕は自分が中絶禁止を自分の信念として宣言したつもりはないですし、「今僕」のサラの決断を容認することが即「中絶禁止派」への参入を意味するわけではないでしょう。

>11話で「産む」事をサラが決意していればこういう形の非難は起こらなかったかったでしょう。

 確かに「日常の中での決断を第一に考える」視点からはそうなりましょうか。ただ僕としては、この話で医師がオルタナティブを提示し、シスが「本人の選択だ」とサラに任せる形で舞台を整え、そこでシュウが一方で博愛精神でしょうが、他方でつい昨日書きましたが生まれる子とサラの幸せが相反する可能性を全く考えない態度をぶつけていることから、この話は望まぬ妊娠をした女性に対してとりうる様々な態度を提示する回であり、ここでいきなり決めてしまえば僕としては唐突に思えたでしょう。サラがこの回で決断しなかったのはかえって妥当に思えています。とはいえ、シュウ中心に見た視点であることは確かですし、八話への疑念を含めて十一話時点の決断に説得力を持たせうるような構成であるべきだった、という批判を無化しうるものではないでしょうが。

>もっともその時は僕を含む中絶容認派からやっぱり何等かの非難があったでしょうが。これはそういう問題なのです。

 ええ、また繰り返しますが、個人的には非難という言葉には語弊を感じるので使用を避けているのですが、それ自体は全く結構です。異論を差し挟まれる覚悟さえお有りなら、そしてその非難への僕の批判が、中絶容認自体に、あるいは出産を描くことへの批判それ自体に無差別に向けられていたものではないことを理解していただけるなら。

>前にも言ったとおり現実世界でまさに(中絶反対派が一方的に)暴力を使ってまで争われている問題ですからアニメで扱っても血を見ないわけがないのです。

 採りあえずこれを戦争における望まぬ妊娠の発生に限定すれば、近年ではユーゴ紛争ですね。あの民族浄化に伴う強姦の被害者は、サラと違って自分の暮らす土地で被害にあったので逃れがたい家族を含む周囲の特別視と、加えて宗教的見地その他から来る出産の強制と闘わなければなりませんね。これらは戦争による強姦に限ったことではないでしょうが。サラはヘリウッドから逃げ出したので、後者から自由になれた。

 ともあれ、中絶を容認なさるのはいいのですが、それが直接「今僕」の出産決断への強い否定に帰結していることがどうにも解せなかったんですよね。他の人も違和感を表現しているにしても、あなたほど強く否定している人は少ないと思うのですが。それは製作者がサラの出産を万人が心から納得できるものでは無いにせよ本人の決断として描いているからだろうし、それに説得力を感じないのはそれぞれの感じ方としても、それをあたかも絶対的に中絶禁止を掲げているかのように批判するというのが、理由は挙げられておられるものの、僕にはどうにも行き過ぎに感じられたのです。ですから、繰り返しますが言論封殺の意図はなくとも、一言いいたくなり、一連の書き込みとなったわけです。これで最後にしますが。それではこの辺で。
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(No.1557) toshi-yk 題名:ついでに、 投稿日 : 2000年1月24日<月>12時41分
ついでに、

>久城さん

 ガイア仮説は聞いたことはあります。通説のように地球の擬人化と捉えると?ですが、環境システム論の一環なんでしょうか。100億年=現在から50億年後+現在までの地球の歴史、ですから、100億年の歴史は無生物を含めた地球そのもののそれなんでしょうね。生物の誕生は35億年前ということですから。ギリシャ神話ですが、僕はオイディプスばかりに気を取られ神話関係は無知・・・。あと、スカイラークシリーズ見つかりませんが、気長に探そうと思います。
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(No.1558) KIKO 題名:サラの事 投稿日 : 2000年1月24日<月>16時14分
そうか!!
サラがアベリアに向けられた銃口を下げるような指示をしたときの心境を考えたら,
サラがなぜ子供を産む気になったのかが少し分かったような気がしました。

これは僕の推測ですが,サラはアベリアを含めてヘリウッドの人達を「人を殺してきたのだから死ななければならない」という
短絡的な思考はしたくなかったのだと思います(そう考えると自分も死ななくちゃいけないし)。
「問答無用の人殺しはもうたくさん」と思ったのでしょう。あるいは,彼女は元アメリカ人ですから,
悪人にもちゃんと弁護人を付けたりして手続きを踏んで公平に判断し,その上で場合のよっては死刑にするという「近代的法治国家」を
「そこ」に造りたかったのかもしれません(「つくる」はだんだん形作って行くという意味で「造る」にしました)。
さらにいうなら、僕は上記のような心境でアベリアへの銃口を下げさせたんであって、サラがアベリアを許したとは考えていません。
toshi-ykさんがおっしゃったように「復習の連鎖」を断ち切るために、「私刑」を止めたと考えています(公平な法律による「死刑」はあり)。

そうしたアベリアに対する態度の心境を考えてみると,犯されて出来た子供に嫌悪感を感じてはいるかもしれませんが,
「子供には罪がない」あるいは「様々なことがあって出来た子供だからそのことを伝えたい」と思って産もうと決意したのかもしれません。
現代日本・アメリカの非戦争時のレイプでは中絶を選ぶかもしれませんが,戦争中という人があまりにも多く殺されてしまう
状況下であることによってそのような選択が視野に入ってきたんだと思います。

その一方,NASTYさんが「人類相互の生命尊重」をいうことを述べておられますが,そのテーマを描くならば,
レイプされた少女が身ごもり,そしてその子供を産むというストーリーでなく,自分の望んだ妊娠で戦争中ながらも
産み育てるというストーリーでもそのテーマは十分に描けると思います。その場合,もしサラのような目に遭う少女を描くならば,
MINEさんがおっしゃっているのとは少し違いますが,自ら身ごもり産み育てる女性との対照として中絶を選ばせることによリ,
その2つを比較してもっと深く考えることが出来るようになるのではないでしょうか。

それにしてもここはログが流れるのが速い・・・。
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(No.1559) にっし〜 題名:ララ・ルゥの愛 投稿日 : 2000年1月24日<月>21時39分
>わかめさん
すてきなご意見、ありがとうございます!!
わかめさんの意見を読んでたら、なんだかジ〜ンときちゃいました。
醜い争いばかり起こす人間、助け合って精一杯生きようとする人間・・・
メッセージの主(ララ・ルゥ)はそんな人間たちに心を痛めながらも愛しいと
想っていてくれてるんですね。
すっごくこの意見、お気に入りです!!
何だかララ・ルゥ(地球or水)の限りない愛を感じてしまいました。
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(No.1560) 松田 題名:幸せな勘違い・・ 投稿日 : 2000年1月24日<月>23時15分
なんか、サラの話題が多いですねえ。
僕は、ララ・ルゥの最後に見事にやられてしまった単純な人です。
そのきっかけというのは彼女がヘリウッドの最上部に上がる際にシュウに言った、「私を・・上に・・連れていって」という言葉を、「私を・・連れていって」と聞き違えてしまい、すっかり、ララ・ルゥはシュウのことが好きなんだなあ。と思いこんでしまったのです。でも、これはあながち外れてないかもしれませんね。
僕が気になったのは、シュウの腕の中で消えていったララ・ルゥの感触は、シュウにはいったいどのように感じられていたのかということです。
様々な痛覚が描かれてきたこの作品ですが、最後の最後、ここら辺の描写がもう少し欲しかった気がしました。
そんなこと考えるのは僕だけでしょうか?

http://www02.so-net.ne.jp/~behind/
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(No.1561) TAKEMOTO 題名:ハムドの最期 投稿日 : 2000年1月24日<月>23時52分
最初はアベリアが見殺しにしたと思ってたのですが
良く見ると水が四方から同時に流れてきてますね。
つまり誰かが防壁を一斉に開けたように見えるのです。
彼の命令は「ここじゃないどこかへ」でした。でもどこ
へ行ったとしても彼にしてみれば同じことだと思うのです。
彼が一番恐れていたのは自分自身、それを理解したアベリア
は最後の命令を実行した。 でもアベリアはどうしたかった
んでしょうね。彼の過去の姿を知っている人としては・・ね。
>MINEさん
漫画家の水木しげるさんが「真面目な人ほど戦場では人を平気
で殺す」と戦時中の話を話しておられました。規則をきちんと
守り、家族を大事にする。そんな当たり前の人が一番残酷だと。
わたしもカザムをそんな「いい人」だと思います。ただ最期の
極限状況で人として責任をとろうとする強さ。それはそう簡単
なことではないはずです。たとえだれもがそうでありたいと思
っていても。
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[ ログNo.1551〜No.1561 ]

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