初めて書き込みます。Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.01; Windows 98)
えっと、私通常は「シュウ」と名乗っているのですが、主人公と同じなのでアルファベット表記です。
今まで特にハマったアニメは、エヴァと(初代)銀河漂流バイファムです。
レンタル屋で手にとって、主人公が「シュウ」という名前だったので、
それに惹かれ、何気なく借りて観て、ハマリました。
DVDを買ってしまいました。
現在9話まで見たんですが、とてもおもしろいアニメですね。
先が楽しみです。
シュウはどうもララルゥに惚れてはいないようですね。
それなのに必死になっているのは、やはりそういう性格だからなんでしょうね。
それと、それぞれの登場人物の言い分と、それに対するシュウの心の葛藤が良いですね。
とっても。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~su1/
気になっていること。「今僕」は確かにファンタジックなハッピーエンドで、戦争を初めとした苛酷な現実を描いたアニメとしては甘すぎる終わりだという面は感じるものの、本当に「甘い」だけだろうか、ということについて、個人的に考えたことを。Mozilla/4.04 [ja] (Macintosh; I; PPC, Nav)
その点で、シュウが一話時点で凹んでいたこと。僕は相変らずこれにこだわっています。ようは、「そこ」もきつかったけど、「ここ」もシュウにとって、帰れてばんばんざいって場所じゃなかったんじゃないかっていうこと。「今僕」は、戦争を描くというテーマと共に、「逃避」もテーマとしているように思えます。
シュウは一話時点で「ここ」で自分のこれまでのやり方が通用しない壁にぶつかっていました。ララ・ルゥと出会い、死が当たり前の苛酷な「そこ」に望んで、自分の思う在り方と「そこ」の現実との齟齬に苦しみましたが、彼は一度も「帰りたい」と言っていません。この点は、全身で帰ることを望んでいたサラとの違いでもあります。彼が「ここ」に思いを至らすのはたった一度だけ。それもよりにもよって「小田に勝ち、あの子と・・・」という夢の中の反実仮想においてです。「今僕」は、シュウの逃避の物語としても見ることが出来ます。その意味ではナブカの「おまえは帰れ、そこがおまえの生きる場所」は、自分の果たしえなかった希望を代わりに、という利己的なものであると共に、シュウにとって「励まし」になったのではとも理解できます。
ララ・ルゥのいない「そこ」はシュウが留まりたいと思うような理由を持つものではなく、その意味で「自分の動機がなくなればさようなら、か?」という、無責任な行動ではという批判を呼ぶものではありますが、今まで書いたように、帰る先である「そこ」は、シュウにとって苦しい場所でもある。帰ってきたシュウに真っ先に突き付けられ、それを眺めているシーンが俯瞰的に寂しげに描写された「剣道具」がその象徴に感じられます。もちろんまず平和な日常の象徴でしょうが、その中での試合での負け、失恋という二つの敗北の象徴でもある、と。シュウはこれからそれと向かい合わなければならない。サラも大変ですがシュウもこれから大変なように思えています。
「エヴァ」以降、アニメを評価する際の視点に、「自らの虚構性にどこまで自覚的か」というのが加わったように思えます。エヴァについて言えば、テレビ版ラストのアニパロへの露骨な皮肉と称される(「学園編」(便宜的につけた略称です。正直僕はこのシーンにそんな悪意は読み取れなかったのですが、製作者がアニメファンへの怒りを露にしているようなのでそうなのでしょう)と、映画後半の実写映像、映画ラストのアスカとのやり取りあたり。前者二つはよくわからなかったけど、最後のは好きです。もちろん「リヴァイアス」のように、あくまで虚構内現実のリアリティを突き詰めるという方向もあります(今話のあおいの独白にはどうしてもエヴァ学園編を思い浮かべてしまう。昴治がそれを絶ち切るのは「リヴァ」スタッフなりの学園編への回答かな、とか穿った見方をしてしまいました。ただ今話は前半見れなかった・・・感情表現がエキセントリックに過ぎるところはエヴァ同様引く部分もあれ、やっぱり面白いので残念・・・)。変な理屈をこねたり「現実へ帰れ」とかいわずもがなの嫌味や警告をして悦にはいるより、登場人物と共に楽しみ、苦しみ、その中でリアリティを表現しよう、という。Mozilla/4.04 [ja] (Macintosh; I; PPC, Nav)
そこで「今僕」。悲惨な世界を描いておいて、あえて「そこはおまえの生きる場所じゃない」という言葉を作品内に含ませている。これは、「これは虚構、現実の他の国で同じことが行われているんだよ」という留保としても、「「そこ」のことはまず「そこ」の人の問題、それを気にするのもいいが「ここ」でやることもあるはず」という日常への注目の勧めとしても読めます。僕がここでこだわっているのは後者の方ですが、たびたび「エヴァ」との比較ですが、学園編や実写挿入のように外側から居丈高に殴りつけて説教かますようなやり方ではなく、映画版ラスト(これは見る人によっては前者と同様の仕打ちを感じるようですが)やリヴァイアスと同じように、きちんと作品内でそれを表現していることに、個人的には好感がもてました。うーん、こうした一般論まで引き上げるとこの「今僕」理解の弱い説得力がさらに弱く・・・。
あと他に気になっていること、というか愚痴をいくつか。まともな文章にする自信がないので今後さらに展開して書き込むかどうかはわかりませんが。Mozilla/4.04 [ja] (Macintosh; I; PPC, Nav)
まずエランバ。彼は復讐に、ハムド打倒にしか生きられないと宣言していた。と言い切るのは、彼が「これ以上同じ目に合う人間をださないため」というこれからのことを考えていたので一部不公平ですが、こう言う彼の脳裏に死んだ妹があったことは大きいでしょうから。その在り方は最後にサラがアベリアに私刑を加えなかったことで批判されました。ただ、エランバが存命のうちにこれをもっとだして、意見を戦わせて欲しかった気も。彼もタブール同様、割を食わされた感が強い。
ヘリウッド=ハムドの私有物、という印象をもたらす描写(あるいは背景描写の欠如)、そこから世界背景が善悪に分れ気味で、逆に言えばヘリウッドの成員がなぜヘリウッドに所属しているのかが判然としないこと。例えば、「今僕」中で精神の安定度ではトップだったシスの、登場時に強行派を批判した「話し合いで収めなければいけないところを力で」と、ララ・ルゥが交渉に使われそうになったときの「話し合いの通用する相手じゃない」という矛盾に、「今僕」の弱点が現れているように思えます。単純に言えばヘリウッド、ひいてはハムドがただ悪すぎる。戦争の目的がハムドの脅え、そしてその隠れみのとしての他勢力すべての武装解除と永遠平和、というように、両極端に依存しているので交渉のしようがない。こんな私的な、同時に極端に公的な動機で国家が、ひいてはその成員が動かせるだろうか。
この批判は、例えばヒトラーがただ俺が俺がではなくあくまでドイツ民族の生活向上を保証し、一定の成果を挙げたために支持されたこと、ヘリウッド描写の参考にしているとおぼしきクメール・ルージュも、例えば幹部の一人が若き日に国を豊かにする願いに満ちた論文を書いていたということ(もちろん内容未見ですが)、その後の強引な政策もまずは集団の福利を願ってのものだったことを念頭においています。もちろん結果がああもがたがたで自浄作用もまるで発揮されず破綻へまっしぐらだったのだから、その点は批判が必要ですが、それでも特定集団の利益に沿うことを、欺瞞の部分はあれ目的とはしていました。それに比較してヘリウッドは単にハムドの私有物にしか見えなかった。ここがどうにもひっかかりました。
ただ、この欠如は、ハムドという個人の弱さ、崩れていくさまを非常に印象的に描いたこととトレードオフの関係になっている感があるので、一概に全否定は出来ませんし、ハムドを初めとして、登場人物にただ正しい、ただ悪い人がいなかったことはむしろ特筆に価するように思えます。この辺りは前にも書いたなあ。
あと娯楽のなさ。シス、サラ、と登場する女性が、押しつけではないにせよ女性性のなかの「生むこと、母であること」を選択するように描かれたのは確か。そしてあの世界では、男も「父であること」を要請されるように思える。「今僕」には、親子関係への強い信頼がある。そこにある種の偏向があるのは確かだし、僕も違和感を覚えた。親子関係はそれだけを描写すればどうしても個人を越えた要素の保守継承が目的になり、僕のようなものには息苦しさを感じさせる。せめて、あの世界の中に何か意味なく楽しんでいるさまを、娯楽を描けなかったのだろうか。ザリバースで見られた「労働の楽しさ」じゃなくて。いや、労働が楽しいものでありうるのは確かですが。
とりとめないのでこの辺で。
久しぶりのKIKOです。Mozilla/4.06 [ja] (Win95; I)
就職活動などで忙しくて、掲示板を見ている暇がありませんでした。
まず、
【スタッフの方々】
この掲示板をご覧になっていたのですね。好き勝手に書き込んだりしていたので恥ずかしいです。
でも、いろいろ考える機会を与えて下さったことに感謝しています。
ありがとうございました。
さて、
最近は『今僕』の後番組である「ミルクチャン」を見てたりしますが、その中で毎週『今、そこにいる僕』のCMを
やっていますよね。『今僕』の音楽が好きなので毎回見ているんですが、そのCMでのアピールの傾向がほとんど
「冒険もの」という感じがするのですが、気のせいでしょうか。
このBBSで皆さんが話し合ってきたことは、「今僕は単なる冒険ものじゃない」ということだと思っているのですが、
はっきり言って、ハムドがカッコ良すぎます(笑)。
あれだとビデオ・DVDを見た人はCMとのギャップに驚くでしょうね。
まぁ、広告のテクニックの一つであるといえばそれまでなんですが。
久しぶりなのにあまり意味のないことを書き込んでしまい、申し訳ありませんでした。
では、またそのうちに書き込みをさせてもらいます。
(今度はちゃんとナブカとタブールについて考察したものを書くつもりです)
私の名前を見て眉をしかめた方も、そうでない方もこんにちはMozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Windows 98; DigExt)
おひさしぶりのエリです。
最近ここでの議論をとんと見かけなくなり、私は過去ここで
掲示板を混乱させる発言しかできなかったようなやつなので
そんなやつが書き込むのもなんですが、
はじめて書き込んだとこがさびれる(一時期にくらべて)のもさびしいので
ひとつ、問題提起してみたいとおもいます。ちょっと大げさかも(^^;)
1.この物語をとうしてシュウは「大人」になる(近づく)ことができたのか?
2.今の時代に、戦争を描くことがどれだけ意味をなし得たのか?
この二つはこの物語の「鍵」になると思うんですがどうでしょう?
これですこしは活気が戻るといいんですが・・・・
ちなみに、メールアドレスをつけました。個人的に意見のある方はどうぞ
(んな人いないか・・・)
※添付ファイルは受け付けません!正体不明のメールも読まずに削除します。
私が言うのもなんですが、誠意のあるメールにはちゃんと対処します。
知人に洗脳されてビデオを借りました。Mozilla/4.5 (Macintosh; I; PPC)
どんな話しなのかよくわかりませんが、面白そうですね。
見たら感想かきます。
>エリさんMozilla/4.04 [ja] (Macintosh; I; PPC, Nav)
こんにちは。最も繭を顰めることを期待されている者かもしれませんが、そんなことはありませんでした。挙げられている問いに、僕なりの答えを。
>1.この物語をとうしてシュウは「大人」になる(近づく)ことができたのか?
「大人」というのを自分の能力の限界を知ること、と簡単に定義すれば(この定義を強制するつもりはないです。ただ少し固めないと考えが進まないので)、僕としては、なるまでには至らないにせよ、近づきはしたと考えています。理由は次のいくつかです。
自分の言葉を他人に拒絶される経験をして、それを受け入れたうえであえてもう一度語りかけたこと。人の死を知ったこと。「敵」を憎むことを知り、その持つ力と無力を知ったこと(僕には、シュウがハムドを殴り続けて棒が粉々になるシーンは、この両面を現しているように見えました)。現在にのみ生きて、凹んで昔に戻りたいと思いつつもそうした自分を拒否していた子供が、失われたものを思うことを知ったこと(シュウが「今僕」で過去の象徴としての意味をもっていた夕日を「きれいだ」と思えるようになったことを通じた間接的理解ですが)。それでも彼が年令的にまだ子供なのを差し引いても、彼の本格的な大人への道のりは、描かれなかった「ここ」の生活のなかで試されると考えています。以上から「なってはいないが近づいた」です。
付け加えれば、「子供」の無知と身勝手さに距離を感じつつ、「大人」になることがただ喜ばしいこととも思えない者として、「今僕」の描写にその間の推移の繊細な表現を見いだし、共感を覚えました。
>2.今の時代に、戦争を描くことがどれだけ意味をなし得たのか?Mozilla/4.04 [ja] (Macintosh; I; PPC, Nav)
これは難しいです。こうした問いに対して何を答えようと、「所詮虚構」「現実的影響がないから駄目」という批判に対しては余りにも弱いですから。だから今まで、未熟者の分を越えて「戦争描写に批判すべきところは、あるいは評価すべきところは」という描写の方法論のレベルで批判・評価してきたのですが。これは単に殺戮描写のみに限定されない、政治、経済その他各種の背景描写を含めた広義の戦争描写です。このレベルにおいては、まずは背景描写の不足に危惧を覚えました。ただそうしたことは自分なりに想像して補完すればいいことだとも思い、虚構を通じて描かれる徹底した個人描写に、自分の考えてきたこととは別の形での戦争描写を見いだし感銘を受け(特にハムドの描写には。笑えてしまうところ、圧倒されるところも含めて)、それでもあのエンディングに、戦争を描ききったというより子供の成長物語の幕切れの方を強く印象づけられたことと、権力の必要性の軽視に、「やっぱりガンダムその他と同じように、感動することは出来ても、これから先の在り方を考える上での知的な助けにはなりがたい」と感じ、批判してしまいます。
話がそれました。四六時中考える必要はないにせよ、ものを考えるうえで、戦争が政治的にも経済的にも社会的にも未だに本質的な要素なのは(その遂行には極力反対するにしても)動かしようのない事実だと思うので、これに目をむけ、僕を含めて多くの人を巻き込んだというだけでも、十分に意味は感じるところです。
あと、エリさん自身はこの二つにどのような答えをお持ちなのでしょう。あと、なぜこの二つの問いを鍵だと考えるのか、についても、もう少し書いて頂けると有り難いです。もちろん強制はしません。
せめてシュウには「死んじゃダメだ」「生きていればいいことだってある」とMozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Windows 98; DigExt)
言えるだけの根拠(過去)を提示して欲しかったと思います。過去の累積が無
い為に、どうしても私の中では違和感がまとわりつき、台詞に重みを感じる事
ができませんでした。特にサラに堕胎を思いとどまらせようとするシーンでの
シュウの台詞、また「おなかの子に罪はない」と言ったニュアンスの台詞には
呆れを通り越し、(笑い事ではなく)吐き気を催しました。果たして、あれら
一連の台詞を考えた方々が、「もし自分の娘が」という状況に陥ったとき「自
分ならどう声を掛けるか」と少しでも試行錯誤して下さった上であの台詞にし
たのならば、理解はできませんが作品上で表現する資格はあると思うのですが。
産んだ子供が日に日に最初の兵士に似てきたとき、過去の恐怖に母子共々捕ら
われない保証はどこに?それとも母親とはそれほど強いもの?
結局シュウという少年は、最後まで自分の置かれた状況を理解することなく、
自分の考えを改めることもなく、なんら成長することは無かったモノと感じ
られました。
また今の時代に、戦争を描くことがどれだけ意味をなし得たのか?という点
ですが、制作者側の主観というか主張が入ってしまうのなら、あまり意味は
ないのではないかと。人それぞれがどう真剣に受け止めるかを望むのなら、
映像は垂れ流しで、時折補足説明が入るだけといった形式をとる方が良いと
思うのです。
かなり辛口だとは思いますが、以上がこの作品に対する正直な感想です。