皆さん、おはよう、こんにちは、おばんです。Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Windows 98; DigExt)
初めて書き込ませて頂きます。
いやぁ〜、それにしてもなかなかどうして、
意味深な作品ですね。(いまさら何を)
深いところまで検証している人達がいるようですが、
その方々には本当に頭が下がります。
自分はまだ9話までしか見ていませんが、
次回はどうなるのか?という好奇心に駆り立てられる一方で、
あの1話1話を見終わった後のエンディングを見ていると、空しいというか、
何ともいえない感情が、込み上げてくる。
久しぶりに心に染みる作品に出会ったような気がします。
いまさらですが私個人の感想を書いちゃいました。ご勘弁
また見たくなったので、見てこようかな?(夜行性) では。
WOさんのレスにお答えしようとするうちに思考があらぬほうへ向き(そっちは後日)、ネタ切れの舌も乾かぬうちの最終回の展開についてのオルタナティブの提案を少し書き込みます。こういうのが不快な人もご容赦を。念のため、ここから先は最終回についての感想のため、ネタばれを含みます。未視聴の方はご注意ください。Mozilla/4.04 [ja] (Macintosh; I; PPC, Nav)
僕は、最終回に関しては、おおむね満足しています。ただ、タブールがナブカを撃ってから、シュウがハムドの元に辿り着くまでのあいだの成り行きについては、未だに違和感をもっています。
まず視聴時に、「余りにもシュウが簡単に辿り着けすぎでは?」という違和感を感じました。「普通殺されるだろう」という単純な懐疑はまず置くとしても、案内もないのに簡単にコンソールまでは辿り着いている(そこからハムドとララ・ルゥのもとに辿り着くのにはアクシデントが介在しましたが)。ここからまず、「ナブカが最終的には死なねばならなかったとしても、彼にシュウをハムドの元へ導くという「仕事」をやらせてもよかったのでは、と考えました。「おまえは帰れ」の台詞にしても、いまわの際の言葉でなくとも、案内中の会話の中でも十分成り立つと思うので。
そして、もしこの展開を採用するとすると、少なくともタブールが「村はない」の告白のあとすぐにナブカを殺すことはなくなるでしょう。やるとしたら、案内の途中、シュウも立ち会い、三人が一堂に会する機会において。そうすれば、作中でどこか唐突な感を受けたタブールの行動を、シュウという、へりウッド側の人間という立場から見れば「敵」の、ナブカのと関係においては「第三者、あるいはライバル」の介在を通じて、そして自分の与えた情報にも係わらずシュウの手助けをしているナブカとの対峙を通じて、いま少し彼のナブカ射殺を納得(語弊がありますが、他の表現を思いつかないので)できるかたちで、少なくとも「狂ってる」というどうしようもない動機からは区別した形で描くこともできたのではないかと。「狂ってる」タブールの表情は、三話でのサラへの加害者の、風貌的にはことさらに醜く、加えてその行動を見るに人間性を欠いた描写と並んで、僕にとって『今僕』において安易に感じられた、残念な描写です。タブールがナブカを射殺するに至る経緯のああしたありよう、そしてあまりにみっともない最期は、「故郷」と、もう一つ付け加えるなら「権力」、に対する二つの相反する対し方を、一方を簡単に悪者にしないで描く機会を、そしてそれが描かれる期待を僕に持たせた九話(でしたか、ナブカとタブールの口論)でタブールがナブカに見せた苛立ちと逡巡を、余りにも簡単に押しながしてしまったように思えて、それが今でも少し残念です。
では。
>toshi-ykさんMozilla/3.0 (DreamPassport/2.1)
僕のようなつまらない人間の言うことを気にして頂い有り難うございます。
「今、そこにいる僕」の最終回、観るのはもう少し先になってしまうと思いますが、心して観ようと思います。最終回でのいくつかの違和感のご指摘、「なるほど」と思いました。ただ、タブールの唐突な行動についてですが、僕個人としてはナブカがシュウに「お前は還れ」というシーンは二人きりでやらせたかったのではないかと思っています。確かこのシーンで「棒」をナブカがシュウに渡す場面があるのだと思いますが(すみません、まだ観ていないので)、シュウが現代から来たことの象徴である「棒」をナブカの死を通じてシュウに渡す(想いを託す)という描写を作り手が優先したかったのではないか?と考えています。タブールとナブカの関係は、もう少し愛憎渦巻くものを期待してしまいますね。
いずれにせよ、なまじ良くできた作品だからこそ物理的制約(話数等)に裏打ちされたご都合主義のような部分が露呈し易いのかもしれませんね。
僕としては「今僕」の「世界背景の希薄さ」は14才の少年から観た簡素で安易な世界観という解釈で補完しています。というかそう自分に言い聞かせています(笑)。14才(子供以上、大人未満)のシュウだからこそ過酷な状況を乗り切れた(この場合、相葉昴治ではおそらくムリ)のだと思います。サラの堕胎を止めることが出来たのは、シュウが良い意味で「バカ」だからだと思います。大人になると消え失せてしまう「単純であるが故の純粋な正義感」は大人になってしまった僕としてはやはり、渇望して止みません。
>WOさんMozilla/4.04 [ja] (Macintosh; I; PPC, Nav)
はじめまして。延期していた再レスさせていただきます。僕が「アニメ雑誌の淡泊さ」を云々したのに対して、
>これはアニメという業界のある種の「記号化」が肥大し過ぎていて、
>批評を載せる事よりもキャラクターのグラビア等を前面に出した方が
>経済効果がある(それが全てでは無いですが)ということなのだと思います。
>まぁ、今に始まったことでは無くて連綿と続いてきたことなのでしょうけど・・・。
とのことですが、一理あると思います。ただ、WOさんも「これだけではない」と断りを入れておられますが、これだけだと「記号化に適応しているアニメファン/してない非・・・」という二分に帰着しがちなので、別の切り口も考えてみました。それは、作品に、ひいては製作者に異論を唱えることが少ない、というものです。
「淡泊」などといった手前、『リヴァイアス』に関する記事を基準に今月発売の各誌をざっと読んでみたのですが、『AX』、『ニュータイプ』が製作者のインタビュー、『アニメージュ』が一話と二十六話の比較と編集スタッフのその他のご贔屓キャラ・場面、『アニメディア』は無し、といったところでした。『アニメージュ』の特集は読解や個人の感想の提示としてはしっかりしたものでしたが、やはり「説明」に留まっていました。二誌のインタビューは、ほとんど製作者の意志のたれ流しなので、不遜な言い方ですが論外です。それではどう言うのが僕の求める「批評」なのだろう、と考えながら立ち読みを(すみません本屋さん)続けていたときに気づいたのが、『ニュータイプ』で黒田氏が、キャラを簡単に殺してしまって何が描けるだろう、といった、キャラを殺して感動を喚起することへの懐疑を述べられていました。ニュータイプ側のコメントは全面賛同の呈でしたが、他のアニメを見渡せばそうした手法を採っているアニメは山ほどある。その現状を見て反論なりして欲しいところです。『今僕』などそうしたアニメの最たるものですが、『AX』には大地氏&倉田氏のインタビューも載っていて、倉田氏が、簡単に殺したキャラは一人もいない、と述べている。こちらはインタビュアーの側からの反論どころか反応自体が無し。ようは、こうしたキャラの生死への対し方という点で正反対の方向性を持った優れた作品が同時に登場して、インタビューで製作者がその点に触れているのにもかかわらず、「製作者の意志」という名の正論として無批判にたれ流すことしかしないところに、不満を感じました。これでは、どこまでいっても「殺すのか生かすのかどっちか」の二分法のまま。両者がそれぞれ何を表現しているのかを比較し、受手ならではの、特定作品内の表現に隷属しない見方をだしてもいいのでは、と思うところです。
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ついでに情報。『AX』の『今僕』インタビューの欄外に宣伝がのっていたのですが、『今僕』の『完全保存版シナリオ+データブック』が、ソニーマガジンズより五月三十日発売予定だそうです。2800円。あと『AX』、表紙の裏にハムド氏とスーパーミルクちゃんを絡ませた『今僕』最終巻の宣伝が・・・脱力。
シュウのアレは勝手な「思いこみ」でしょう。そして「サラの堕胎を止める」行為が「正義感」と捉えられてしまえるところが、「男の視点で作られた作品」に他ならないということなんでしょう。Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Windows 98; DigExt)
実際、身近な女性にこの状況で生むかどうか尋ねたところ、返答は「即降ろす」でした。理由は「好きでもない男の子供が体の中に入っているなんて気持ちが悪い」。
至極当然の意見かと思います。
結局、なぜサラにこだわるのかといえば、そのテーマだけが「異質(戦時でなくても存在する事実)」で、それ以外の戦争描写は「普通(というより戦時なら当たり前)」だったからだと思います。
戦争というのはこんなにも惨いものだ、というのはおそらく万人が受け入れる結論でしょう。また、そう捉えるのが普通です。
ところがレイプというものは戦時でなくてもあることです。そして被害者は現時点でもたぶん存在しているでしょう。ですがこの作品が出した「堕胎すべきか否か」に対する結論は、「女性は泣き寝入りの上、新しい生命のために生むべき」ととられてもおかしくないものだと思うのです。「加害者に対して甘い日本」というのはよく聞く話ですが、その点だけが、この作品を心の底から好きになれない理由なのだと思います。せめて「堕胎する勇気だってこの世に存在していいんだよ」、という表現さえあれば納得いったのですが、「男の視点的優等生解答」では...。
ここ以外は凄く好きなシーンとかもあるんです。ナブカがシュウに「お前は...(このタメがいい!)裏切るなよ」(ちょっとうろ覚えですが)というところなんか友情の発露みたいな感じで泣けてきましたし。
しかし、これだけ感情移入のできなかった主人公も久々でした。せめて「生きていればいいことがある」といえるだけの根拠と過去を主人公に与えて欲しかった。そうすればシュウの一連の台詞が、軽く無神経な台だけの台詞になってしまう事もなかったでしょうに。それに状況把握能力のなさもちょっと。相葉コウジどころかルクスンよりも早死にしますね(笑)。戦時中に棒きれもっている兵士などいい的でしかありません。アニメなのでいいんですけど。「殺さなければ殺される」と考えが変わっていった方が自然で納得のいくものになったと思うのですが。
>DTさんMozilla/4.04 [ja] (Macintosh; I; PPC, Nav)
突然ですが、同感混じりの異論を。
>シュウのアレは勝手な「思いこみ」でしょう。そして「サラの堕胎を止める」行為が「正義感」と捉えられてしまえるところが、
>「男の視点で作られた作品」に他ならないということなんでしょう。
ですが、一理ありますね。僕もシュウの言葉そのものに「正しさ」(倫理、状況判断の両面で)を感じることは少なかった。ただ、いままで何度か書きましたが、「シュウの具体的な行動や言動」=「作品の唱える正義」だとは一概にはいえないのではと考えています。確かにおそらくシュウは製作者の正義感を代弁していて、むしろ身勝手なところを含むそれを構わずぶつけている感がある。そうした彼の闇雲な状況への拒絶反応から、「何としても認められないものがある」という感情のリアリティを受け取りもしました。ここまで強い感情を放射するアニメには今まで出会ったことがなかった。その正しさには疑問の予知があるし、批判も必要だとは思います。ただその一方でサラはシュウの言葉に納得してませんし、12話でララ・ルゥがスーンに「大丈夫だ」と断言するシュウに向けた、彼の脳天気さとの埋まらない距離を見据えるような視線も印象に残っています。ようは、シュウへの批判はある程度は作品内に取り込まれています。結局シュウの現状認識は作中でもことごとく否定されて、残ったのは期待を裏切る状況に対する怒りと悲しみ、それに抵抗する「正義」というより生理的違和感に根ざした脳を介さぬ行動と、それが発散するエナジー、生への執着ですから、大小様々な悲惨を描いたうえで、それでも残るよくも悪くも曖昧で無根拠な生をこの作品は擁護しようとした、と僕は捉えています。中絶すべきか否かという問題への解答を提示するものではなく、「殺すな、生きよう」といった風の。あとで書きますが、シュウの台詞に根拠がないのもそのためでしょう。むしろ根拠がなくてもかまわん、という。毒にも薬にもならないけど、何か残るものを感じています。
>実際、身近な女性にこの状況で生むかどうか尋ねたところ、返答は「即降ろす」でした。
>理由は「好きでもない男の子供が体の中に入っているなんて気持ちが悪い」。至極当然の意見かと思います。
理解できます。
>この作品が出した「堕胎すべきか否か」に対する結論は、「女性は泣き寝入りの上、新しい生命のために生むべき」
>ととられてもおかしくないものだと思うのです。
受手には解釈の自由があるとはいえ、少し見方が穿ちすぎだと思うのですが。サラの最後の言葉を見るに、「この世界で生きていこう」という前向きな決意が主ですから。ただ、出産が副産物になってしまっている。シュウとの押し問答の場面で、サラが自殺しようとしたために中絶の問題がぼやけてしまったのと同じです。僕からすると、『今僕』で中絶問題を云々するなら、サラが妊娠を選択したことを声高に糾弾するより、この「問題のすりかえ」こそ指摘・批判が必要なもののように思えます。ようは、『今僕』は望まぬ妊娠をテーマにしながら、妊娠中絶の是非について自身の結論をだすことから逃げています。あるいは、扱い損ね、結論を出し損ねています。僕としては、『今僕』は望まぬ妊娠の悲惨を徹底して描きはしたが、そうした被害に合った女性がその後子供をどうしたらいいかに対する指針までは描いていない、と捉えています。僕は『今僕』に中絶問題への解答を期待していないせいか、この欠如を批判する気にはあまりなれない。
>「加害者に対して甘い日本」というのはよく聞く話ですが、Mozilla/4.04 [ja] (Macintosh; I; PPC, Nav)
>その点だけが、この作品を心の底から好きになれない理由なのだと思います。
加害者ですが、最初の男は最終話で溺死(おそらく。水で満たされたへりウッド内を流されていく描写があったもので)していますね。僕はこうした形の決着には少し批判的なのですが、DTさんとしてはあの加害者、あるいはカザムのその後をどのように描いて欲しかったのか気になるところです。
>せめて「堕胎する勇気だってこの世に存在していいんだよ」、という表現さえあれば納得いったのですが、
>「男の視点的優等生解答」では...。
先にも書きましたが、シュウの言葉だけが作品のメッセージ、「解答」ではないと思います。暴行のあと対人恐怖に犯され、強く中絶を願い、自殺を試みるサラを描いたこと自体、単に「中絶反対という解答」への過程じゃなくて、暴行に、兵士増員目的の妊娠に反対し、中絶の可能性も視野にいれたメッセージでもあると思います。ただ僕としては、先にも書いたようにサラが自殺を志したことで、中絶の問題が曖昧になってしまったように感じられたことが批判点ですね。
>せめて「生きていればいいことがある」といえるだけの根拠と過去を主人公に与えて欲しかった。
むしろ安定した根拠や保証がないなかでの逡巡や行動の描写が『今僕』のやろうとしたことだと思うのですが。だから、僕としては説得力のなさ、「正しさ」の欠如でこの作品を責める気にはなかなかなれないところです。それでも色々責めてますけど。
>ここ以外は凄く好きなシーンとかもあるんです。ナブカがシュウに「お前は...(このタメがいい!)裏切るなよ」
>(ちょっとうろ覚えですが)というところなんか友情の発露みたいな感じで泣けてきましたし。
そうですね。個別のシーンの出来栄えは妙に高いんですが、どうもうまいことつながっていないように思えるところ、あまりに安易じゃないかと思われる台詞も確かに目につきますし。
>「殺さなければ殺される」と考えが変わっていった方が自然で納得のいくものになったと思うのですが。
自然ではあるかもですが、難しいでしょう。そうした「敵を殺す自然さ」を形作っている前提や状況そのものを疑問に付す作品なのでしょうから。
何かことさらにいちゃもんを付けているように受け取られそうですが、そうした意図はありません。単なる異論の対置です。それでは。
念のために書いておきますが、サラの出産選択を「何で、おかしい、普通産まないよ」と感じること、その他『今僕』について「おかしい」と思うことにどうこう言うつもりは全くありません。僕だってそう思いますから。ただ、そこから『今僕』が原理的に妊娠中絶反対を訴えていると結論することに対してはどうしても懐疑的なのです。DTさんの書き込みにレスを付けさせてもらったのは、このあたりに対する自分の考えを再検討したかったのがあります。後言い訳2。うーんまた書き込み中の自己資本比率が・・・では。Mozilla/4.04 [ja] (Macintosh; I; PPC, Nav)
>DTさんMozilla/3.0 (DreamPassport/2.1)
僕自身扱うのに躊躇する言葉だったのですが、「正義感」というのはやはり適切でなは無かったと思います、ごめんなさい。
女の人に「そうであって欲しい」と望む「男の傲慢さ」が自分の中に確実にある事を今更ながら思い知ったようで、つらい気持ちになりました。ただ、男が女に「堕ろすな」というのと同じくらい「堕ろせ」という言葉もシチュエーションによってはやはり、「男の傲慢さ」を感じさせてしまうと思うので、25才でそういう経験も無い男の僕がうかつに論じられる事では無いですね。
「死ぬな」と言う言葉と「お腹の赤ちゃんを殺さないで」という想いが僕の中で同等の物(シュウの荒唐無稽なまでの正義感)と捉えてしまっているところが愚かにもありました。サラに「生まれて来なければよかった」と思って欲しくないから、これから生まれて来るかもしれない命も否定しないで欲しいし、やはりサラにも生きていて欲しいというシュウの単純さに妙に納得していました。
僕は過去の大人達が造ってきた「男尊女卑の社会システム」に反感(文明の発達としては否定できない部分もありますが)を持ち続けていて「女の人をもっと尊重すべきだ」(いわゆる男のメス化とかでは無くて)と思っていたのに、僕自身結局「陳腐なフェミニスト」(もしくはそれ以下)でしか無いです(そして落ち込む)。
シュウは感情移入させるにはキャラクターとしては弱いですよね、「生きていればいいことがある」のセリフは、日頃うまく行かない事が多いシュウが自分自身に言い聞かせているのだと思いますが、剣道に負けて女の子にふられる程度の過去のエビソードしか無いですしね。
>toshi-ykさんMozilla/3.0 (DreamPassport/2.1)
レス&情報提供、ありがとうございます。
「リヴァイアス」のインタビュー、面白そうですね。僕もちゃんと雑誌に目を通してから物を言わないと駄目ですね、反省。
「スーパーミルクチャン」はかなり好きです(笑)。バロディの元ネタをいつも探したりしてます。ミルクチャンのBBSにもよく書き込みします(同じ名前で)。実はシリアスな話よりもギャグ、お笑い、脱力系の方が好きです。
話はガラりと変わって
>キャラを殺して感動を喚起することへの懐疑
についてですが
僕は未熟なので、様々な作品の「殺し」の描写が制作者が話題作りで行った物であるか否かを見極める事はできません。明らかに嫌悪を感じる「殺し」に対しては「ヤラセっぽい」と思ってしまったりするので、そういう所で自己判断(手前勝手は承知の上ですが)するしか無いようです。あと、極論かもしれませんが、キャラクターの生死を表現することが、倫理観以外の部分でも(場合によっては)視聴者にとって「宗教的アジテーション」を促す危険性を持っている(かもしれない)という前例も過去に幾つかあった筈なので、視聴者がそういった表現を批判しないまでも危惧するような心構えはあったほうが良いのかもしれませんね。
因みに僕はキャラクターの死に対しては感動したことは殆どありません、単に「辛さ」の方が先行してしまい、気分が重くなります(あと、しらけることも)。稚拙な言い方だけど、虚構であっても心底的には「誰も死んで欲しくない」と思っています。
環境問題を訴える人類が、抜本的対策の一つである人殺し、人減らし、大量殺戮を容認できないというのは、矛盾していますが「不幸中の幸い」であるとも思えます。
サラの話題は本当に辛くて、話すのも嫌なのですが「今、そこにいる僕」における殺しや性的暴力の表現が作品的なただの「ヤラセ」では無い事を願っています(僕はそう信じています)。