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2000年10月3日(火)/晴れ


 さて、これよりしばらくここは『Strange Dawn』制作雑記帳となります。
作品を作りながら思っていた事とか、考えていた事を思いつくままに書いてみようと思います。
しかし、やや堅い話になりそうですし、普通視聴者は作品が“おもしろかった”か“おもしろくなかった”かが全てなわけで、
制作者の事情など知らなくていいのです。
特に“きっぱりとおもしろくなかった”と言う人は、
これを読んだからと言って“そうか、それならおもしろいぞ”となるなんて事は‥‥多分‥‥ないと思いますし、
却って腹立つだけかも。
ですから、そういう話がいやな人、めんどくせえ人は 、見ないほうがいいかもしれません。第一長いし‥‥(汗)。
気楽な話がお好みのかたは、横手さんの日記をお楽しみください。       

*           *           *

○雑記の1『テンプレート』 物語には、いろいろな型というかテンプレートというものがあると思います。
「思います」と言うのは“専門的な研究をベースにしているわけではなくて、あくまで私感です、という事を分かってね〜”という事ですが(汗)。常々そう思っていましたし今も思っています。
一番ポピュラーなのが、なんと言っても“テーマ描写に最適なエピソードを積み上げ、 ピラミッドをのぼるようにラストに向かって尖鋭化し、最後にテーマを印象づける ” というテンプレートでしょう。

その、最もシンプルなサンプルの一つが「シンデレラ」でしょうか。シンデレラがいかに優しく素直で健気で、まわりの人物がいかに性悪であるかという描写を積み重ねて、最後に幸せを獲得する姿を描く事で主人公の人格を肯定します。
まあ、ちょっと凝ってあったとしても、今、日本のテレビで見られるドラマの殆どがこれの応用になってしまっているんじゃないでしょうか。 このテンプレートは汎用性が高く非常に使いやすいので、ワタシも普段はだいたいそのテンプレートを利用しています。
特に子供向けのアニメでは、やはり間違いなくダントツで効果の高いテンプレートと思っています。

これほどにポピュラーでありながら、しかし、あくまで一つのテンプレートにすぎませんから万能である筈はなく、不得手もあるよな‥‥と感じていました。 確たるテーマを研ぎ澄ましていこうとするときに最大に力を発揮する反面、答えのないテーマを扱う時にはどう考えても使いにくいと感じていました。
ワタシが、自分の作品で「戦争」を扱う事に躊躇し続けていた事は、アニメージュでの、大地さんとの対談を読まれたかたはご存じかと思います。その理由はいくつもあるのですが、そのひとつがこのテンプレートの問題でもあります。
どうしてもストーリーに確たる決着をつけてしまうこのテンプレート。これを使って戦争を扱おうとしたなら、
例えばラストを“戦争が終わりました”という形で決着をつけなくてはならないかもしれません。独裁者を設定して、それを倒すなりなんなりして決着をつけるとかね。
 しかし、戦争というものを独裁者の責任にしてしまっていいものかという疑問にぶちあたります。独裁者も被害者だという結論にしたとしても、 根本的に“終わったから幸せがきた”という事でいいのか?という疑問がのこります。 “答えなどない”という結論に向けてテーマを絞っていくというのも、なんだか違和感があります。“答えなどない”という形で、思考停止をしてしまっていいのかという疑問が重くのしかかってくるんです。このテンプレートで戦争を扱おうとすると 、どうしてもワタシは、こういった堂々巡りから出られなくなってしまうのです。

以上、ちょっと簡単に説明しすぎてて、もしかしたら誤解が生じる恐れもありますが ‥‥、
ワタシが戦争を扱う事をためらい続けていた理由のひとつには、このテンプレートの特性の問題というのがありました。
しかしそうやって躊躇しながらも、日々、きな臭いニュースを見聞きするにつけ、何も言わず逃げ続ける事の不安も感じざるをえませんでした。
多分、大地さんの不安と同じなのではないかと思うのですが。
そして、約一年前のあの時(って、どの時か記憶にはないのですが)“とりあえず13本で始められるような企画、なにかない?”と言われなかったら、『Strange Dawn』の 企画は出さなかったでしょうし、今も不安を感じつづけていたんじゃないでしょうかね ‥‥。

このシリーズで試してみたかったのは“フェードインするように始まって、中程に向かって山があり、またフェードアウトするように終わる。メッセージは収束せず、逆に徐々に枝葉がひろがるように13本の中にちりばめる”という「型」でした。
13本という短いシリーズならこれができるし、この「型」なら何かを確定しなくてもすむので“戦争”も扱えるのでは?と考えました。
この「型」を完成させるために考えたことは、まず、なるべく事件を起こしてはいけないと言うこと。
起こせば解決しなくてはならなくなるから。 そして、「個々のキャラがどのような考えを持って社会(この場合、戦争)の流れに向かい合っているか、あるいは流されているのか」は、キャラクターによって、なるべくバラバラでなくてはならない。
正解は無くていいが、大切なのは「個人の事情 が その人にとっては最大に重要である」という事、それは確かな事実として描く。 そうした上で、「個人の思いが当人にとっていかに重要であれ、おかまいなしに戦争は続くし、終わるときには終わる。
社会の流れは変わらない」という事と「それでも生きて行く各人の、社会の流れに対する姿勢が少し変わったようだ」ということが 感じられ、「魔人ふたりが帰って終わるんだろうな」という予感を感じさせたら、その予感通りに静かに幕を下ろす。というのが、当初のイメージ。
ちょっと端折りすぎかな‥‥、まあいいや、だいたいそんな感じです。 静かに幕をおろすんなら、本編真ん中あたり、ユコとエリが「帰りたい」と話しているあたりで、静かに消えていくというのでいいんじゃないかとも、フと考えたのですが、結果的には大騒ぎになってしまいました‥‥(汗)。
まあ、そのあたりは、いくらなんでもそれじゃサービスたりないかな‥‥‥というお調子者の性が‥‥。
なにせ、この「型」自体は娯楽性を持ち得ないものですから、娯楽性は別途用意しなくてはいけないわけで‥‥。

かなり長くなりましたので、続きは次回。

【予告】 ○雑記の2『この型はテンプレートになりうるのか?』  ※今日の一言:文章下手でごめん‥‥(涙)。

2000年10月4日(水)/晴れ

TVというものはボーッと見る物です。と言い切ってしまうと問題かもしれませんが、
少なくともワタシたち作り手は、視聴者はボーッと見ているものだという事を前提に作るべきだと思っています。
特に子供向けの作品については絶対です。「このアニメは何を言おうとしているんだろう」とか、
そんなことを考えながら見ている子供は多分いませんで、思いっ〜〜きりボォ 〜〜〜ッと熱中しています。
子供モノに限らずTVは、ボーッと見ている視聴者に何かを残さなくてはいけません。
どうやったら何が残せるのか、そのために考えに考え るの が制作者の仕事です。
『Strange Dawn』でも基本的には、ボーッとみてもらう事が前提です。
描いていないことは、視聴者に考えさせようとして描いていないわけではなく、必要ないと思うから描いていないのですが‥‥、
考えようと思って見ている人もいるわけで、なかなか難しい問題です。
このあたりも、いずれここでふれてみようと思います。

      *           *           *

○雑記の2『この型はテンプレートになりうるのか?』 “とりあえず13本(=1クール)でオンエア”というのが、
この企画においては大前提であったことは前回ふれました。
そもそもワタシが構想している『Strange Dawn』は、とてつもなく(←ちょっと大げさかな‥‥)長いストーリーなのですが、
まずは13本と言うオーダーをうけて、企画を練りながら、ぼんやりとですが『Strange Dawn』としての
この“型”が見えた事で 「いける」という確信を持ちました。
この“型”なら、登場キャラクター個々の立場や事情の違い、またそれに原因する 考え方を「点」でなく「線」として描けるし、
13本という事であれば、そのキャラクターのバリエーションも多くでき、しかも深く描くこともできる筈だと思いました。

この明らかにショートストーリー向きの“型”を使う事は、まさにそれこそがワタシにとって 冒険なのですが、「まあ、13本ならどうにかなるんじゃないかな〜」とも思いました。
しかし、これがもし26本だとしたら多分‥‥いや絶対に辛いでしょうね。
ましてや、52本ではどうやっても持たせられるとは思えません。 26本以上のシリーズだったら、やはりなんらかの形で「シンデレラテンプレート」を利用しなくてはならないでしょう。

 ちょっと、余談になりますが−−−。 52本(4クール=1年)のシリーズというのは、「シンデレラテンプレート」を使っても、実は長すぎるのです。
まともにテーマを追ったら、どうやっても20本そこそこで結論に行き着いてしまうのです、困った事に(汗)。
ですから、1年もののシリ ーズ の時には、いろいろと寄り道をしなくてはなりません。
いわゆる本筋と関係ない話で引っ張るわけですね。水増し‥‥?いえ、そうぢゃぁありません。
子供モノのアニメにを作る時は、その寄り道をシリーズをバラエティ豊かにするための「いい無駄」として利用 するわけです。
26本のシリーズというのは、なかなかに微妙なサイズです。
子供向けに「シンデレラテンプレート」を利用するには、もしかしたらこのサイズが一番使いやすいのかもしれないという気もします。しかし、微妙なのはハイターゲットな作品の場合です。

最近のアニメマニアの人達は、昔と違ってかなりの情報量でないと物足りないと感じるようになっていますから。
ハナっから消化しやすい情報量にしておいたりすると 、多分スカスカな設定だという印象をうけるはずです。
そこで、あふれんばかりの情報を盛り込むわけですが、当然サイズによって消化できる情報量には限りがあって、全部消化しきれなくなってしまう事もあるわけですね。実にやっかいといえばやっかいです。
13本というのは、短い分だけ、当然の事ながらさらにやっかい度もまします。

例えば 52本のシリーズの場合、情報の提示(=いわゆる風呂敷を広げるというやつ)に 4〜 5本使います。
だいたい定型エピソードにはいるのが、6〜7話あたりですかね 。
そして、ラストの締めに入るためには、大体ラスト5〜6話あたりから「締め」の準備にはいります。
つまり、普通に自然に物語を展開しようと思ったら、風呂敷を広げたと 思ったらもうたたみにはらないといけないわけです。
きっと、13本の作品に最も適当な“型”というものもあるはずなんですけどね 。
昨今 のように13本のシリーズが多くなってくると、ワタシたち作り手は新しい“型 ”を開発するのも、義務なのではないかという気がしてきます。いや、もちろんそんなことを しなくても誰にも怒られたりしませんが‥‥。

  さて、『Strange Dawn』で使ったこの“型”が一般的であるのなら、いかに映画を見ないワタシでも一度や二度でなく、
もっとお目にかかっているはずです。 もちろん、現在過去あまた映画が作られているわけですから、この“型”を使うのがワタシが初めてであるはずはありません。むしろ、昔にさかのぼればさかのぼるほど 、もっと雑多な、しかもうまい“型”が、それこそ無数にあるであろう事は想像に難くありません。
しかし、もしみんながドンドン使っているようであれば、作品の中に散らばっているメッセージを拾うという見方もあたりまえになっているはずですし、すでに有効なテンプレートとなっているはず‥‥が、実感としてはどうもそういう事ではないようです。
まあ、無理もない事だとは思いますけれど‥‥。
第一、ワタシも多分今回かぎりなのではないかと思っていますし。あくまで戦争を扱うために捻り出した“型”にすぎないですし、あまりに扱いにくすぎます。

ここまで読んで「そんなこと言うけど『Strange Dawn』だって、シンデレラテンプレートと全く無縁な構造にはなっていないじゃない」と思ったあなた、スルドすぎます 。
そう、その通り、仰るとおりです。

その件については、また。

さて、この“型”で、ほぼ4,5時間分のアニメを作り、飽きさせずに視聴者を引っ張る事が次なる課題です。
【予告】 ○雑記の3『もうひとつの冒険』 ※今日の一言:DVDで「マトリックス」を見たらその夜夢見た。ギャグになってた…。

2000年10月10日(水)/晴れ

なるべく堅くならないように書こうと努力はしているのですが、なにぶん文章力に問題がありますので、思うようになりません。
そもそも昔から活字の苦手な体質でして、活字を読んでいると段々眠くなってしまうというトホホな癖が‥‥。
読むだけでもそんな状態ですから、書くとなるとそれはもう並大抵の苦労ではないのです。
BBSに書き込んでいる人もそうですが、自分の考えていることを的確に文字にできる人は、ホント羨ましいです。

*           *           *

○雑記の3『もうひとつの冒険』 事件やイベントで物語を引っ張るのは
『Strange Dawn』でやるべきドラマのスタイルではないと思う。
この事については、すでに述べた通りです。大きな事件や虚をつくイベントを組み込んで視聴者をひきつけるのは
どちらかというと簡単ですが、フェードアウトするように終わるという狙いが遂行できなくなってしまいます。
しかし、総量およそ4.5時間、期間にして3ヶ月の間作品を見続けてもらうためには、何か別なおもしろさを用意しなくてはなりません。 それを今回は、キャラクタードラマ(という用語は多分ないと思いますが、事件主導で展開するドラマに対するものという感じで、今、勝手につくまりました、ゴメン )に求める事にしました。

それは『Strange Dawn』でやろうとしている事にとっては、まさに渡りに船でもあります。
ご存じのように、作品は、一話約20分という確定した長さのものですから、中に詰め込めるものの量は決まっています。
事件描写に尺を割けばキャラクターが薄くなるし、 逆もまた真。
では『Strange Dawn』で、どんなキャラクタードラマをやりたかったのかと言いますと、 これについては3話のラストを解説するという形で、過去の日記にも書きました。 ま、簡単に言いますと“会話の間の空気の移り変わりがドラマになっているような 、ド ラマ”“キャラクター間の空気の移ろいそのものが事件”という感じでしょうか 。

つまりこれがもうひとつの“冒険”です。「ちょっと待て。そんなの珍しいか?よくあるじゃねえか」という声が‥‥。
確かにそうですよね。これは前回までお話した“型”に比べると、そう新しかったり珍しかったりするようなものではありません。
映画やテレビドラマの中のシーンでも、昔から見かけるスタイルかもしれません。 勿論、事件主導型ドラマと空気主導型ドラマは、全く相対する物じゃない訳ですから、 事件主導で展開しているテレビドラマの中でも、空気が伝わってくるシーンがあったりすると、「う〜ん面白れぇ」と感じます。

例えば、ワタシにしても『どれみ』などの子供向け、事件主導型アニメの中に、空気主導エッセンスを混ぜ込んだりしていますし。 本来、そういう形でミックスするのがいい塩梅なんでしょう。 しかし、今回の『Strange Dawn』は、“事件”を避ける事で弱くなる屋台骨を、それで 補おうというわけです。
「『Strange Dawn』だって、“事件”はあるじゃんよ、コラ」という声が‥‥。
そのとおおぉぉぉぉりっすね。やはりどうしたって、1クール全く事件をおこさないという訳にはいかず、事件は起きます。
なんと曖昧な姿勢なんでしょう>自分(笑)。 本来の目的から言えば“事件”を全くおこさないのが原則かも知れません。

しかし 、原則はあくまで原則。重視はしますが、作品を作る時に原則をあまりに頑なに考えると、 作品が閉塞してしまうのです。
これは子供向けかそうでないかに関わらず、多分間違いないと思います。原則から、ちょびっとだけはずれてみる‥‥とか、
うっかりのふりして無視してみる‥‥(笑)とか、そういう曖昧な事をする事で、ふくらむものだと思うのです。

例えば7話。ベレーとテッセルが決闘するという事件が起きます。
しかし、この事件が 起こっている間、キャラ間の空気は停まります。つまり、それは本来考えていた原 則のスタイルからすれば、はずれいているわけですが、しかしそうする事で逆に得られるものも大きいわけです。 事件は起きますが、でもなるべく早く終結します。ワタリのように(笑)。 13本、視聴者を引っ張っていくためにはまだ何かがたりません。
ドライブに例えるなら‥‥‥「フェードイン・アウト“型”」が出発から目的地までの道、
「空気ドラマ」がタイヤとすると、エンジンが必要ですね。
なんとエンジンは“大映ドラマ”なのです(笑)。う〜む、無節操でしょうか ‥‥。
しかし、このように様々な要素を前例のない形で組み合わせていく。
それが成功するか 失敗するかは分からないが、こりやり方でしか『Strange Dawn』は描けないと思う 。
だから“冒険”なのです。
【予告】 ○雑記の4『ダイアログ』  ※今日の一言:ああ〜、「ガチンコ・ファイトクラブ」一期生が‥‥‥。

2000年10月13日(金)/曇り

DVDの特典映像に、シャル達の靴を脱いだ設定が‥‥。
ベレーや、レカまで‥‥。 門外不出のつもりだったのに、門外不出の指示をだすのを忘れてたよ(汗)。
まあ、いいか。

*           *           *

○雑記の4『ダイアログ』 今回のは、『Strange Dawn』を楽しめた人には、言わずもがなな話です。
ひとつのスタイルを構築するためには、セリフ的なスタイルも重要になります。
セリフについて『Strange Dawn』で考えていたのは

○なるべく感情を露骨にのせたセリフは避けたい。
○本当の感情と一致していないセリフを多用したい。 という2点。

これは、とりもなおさずワタシの好みなんですが、「いいなぁ」と思 うセリフ芝居は、だいたいこのスタイルのセリフだったりするのです。 しかし、これは、どんなにやりたくても基本的には子供向けではやってはいけない事だ と思うのです。
だから普段は“あまり”やっていません。 分かっている人には、無駄な講釈になりますんで、そういう方はこのブロックはとばし読みしていただくとして、すこし具体的に説明しますと。

‥‥‥まあ、単純すぎてあまりいい例ではないのかもしれませんが、例えば A「消しゴムとって」 B「はい」 A「ありがと‥‥」 という一見なんでもない、ごくあたりまえのセリフ運びの中で、“AとBってお互いにむかついているんじゃないか?”と感じられる‥‥みたいな。ワタシはそんな芝居の方が面白いのです。
最後の「ありがと‥‥」は、絵は笑顔でニッコリだったとしても、絶対に感謝の気持ちじゃないよな‥‥という気が、見ていてする‥‥芝居ですね。文字面と感情が裏腹 。

これが子供番組では、例えばこうするでしょう。
A「消しゴムとってよ、気がきかないなぁ」
B「ほらよっ」
A「投げる事ないじゃん‥‥(ぶつぶつ)」
こちらはセリフと動きの両面で、はっきりとストレートに感情を表現するタイプです。
セリフの持っている感情と芝居で表現しなくてはならない感情も一致するようにしてます。作り手の立場でなく一視聴者に立場で言うなら、ワタシにはこちらのタイプは 、やはり物足りません。 子供に向けては後者のタイプでないといけないという理由は、子供にはコミュニケ ーションの蓄積が不足しているからです。そのアニメで初めて体験するコミュニケーションの形かもしれないわけですから、しっかりわかりやすくしてあげる必要があるのです 。 と言いつつ、実はたまにやっていたりもするのですが(笑)

‥‥でもホラ、たまにだし。 前者のタイプは、会話から生まれるその空気に思い当たるだけの、コミュニケーションの蓄積が視聴者にあるからこそ面白いわけですね。 ただ、分かる分からない以前に、好き嫌いの問題もありますから、蓄積があれば絶対に面白いかというと、そんな事はないんですよね。何が正しいわけでもありません。
「寅さん」は好きだが「スターウォーズ」は嫌いという人と「スターウォーズ」は好きだが「寅さん」は嫌いという人が、どちらも等しく正しいように。
しかし、世の中に後者のパターンが増えているのは、まちがいないと思います。
その一番大きな理由は、多分「マンガ」にあるんじゃないかと思います。マンガは音がありませんから、前者のセリフパターンをやろうとしたら大変です。不可能ではないですが、ものすごい演出力が要求されるのではないでしょうか。
無理をせず後者のパターンでいくほうが絶対いいですよね。ワタシが漫画家なら、そうします。 でも映像はやはり前者でしょう、と思うのですが‥‥ところが。

マニア向けのアニメという触れ込みのアニメでも、ワタシが見たものは殆どが後者のパターンで、作品自体はとても深刻な内容なのに、セリフ回しに、どうしても子供向けの臭いがしてノれなかったりとか、多かったんです。
最近見たアニメでも、ターゲットは 完璧に青年以上と思われる作品なのに、セリフが全部“マンガ”な作品を見て「あ れれ ‥‥」と思ったりしました。 それでも、作品としては面白いんですが、個人的にちょびっと物足りない感じというか。
ワタシは、マニアと言われる層の人達は、ある程度そういう“物足りなさ”を我慢して見ているんだろうなと思っていたのです。

しかし、どうもそういうわけでもないようで。 そういう作品が支持されている所を見ると、マンガ芝居はそろそろ“アリ”になってきたという事なのでしょうね。

つーわけで、それはそれとして受け入れて、今後の作品に生かしていくわけですね 。
【予告】 ○雑記の5『散らばるメッセージ』  ※今日の一言:そろそろ、みんな飽きてきたかもしれないな‥‥?

2000年10月27日(金)/曇り

最近気づいた事なんですが、この『制作雑記』を書くということが、
“これまで 漠然 と考えながらやっていた事を自分の中で明確化する”という事に役立っているんです。
普段、シナリオ打ち合わせをしながら、あるいはコンテを切りながら、アフレコしながら、
その都度考えている事を文章にするということは、なかなか有益ですね。
変な話ですが、「ああ、おれってこういう事考えながら作ってたんだなぁ」と確認できるというか(笑)。
だからでしょうか、気がつくとなんだか“HOW TOもの”のような文章になってしまったり、
直接仕事を教えようと思っているヤツ以外には教えないつもりのノウハウ について書いてしまっていたりして、
書いた後で削除する事になったりしてます (汗)。
そんなこんなで相変わらず読みにくい文章かもしれません。すみません ‥‥。(なんか、あやまってばっかりだ‥‥)

*           *           *

○雑記の5『散らばるメッセージ』
【雑記の1】に以下のように書きました。
≪このシリーズで試してみたかったのは“フェードインするように始まって、中程に向かって山があり、またフェードアウトするように終わる。メッセージは収束せず 、逆に徐々に枝葉がひろがるように13本の中にちりばめる”という「型」でした。≫
“作品中にメッセージをちりばめる”−−−、この件についてちょっと具体的にふれてみます。

 実は、このやり口は子供向け作品ではいつも意識するやり方です。
前にもちょっと書きましたが、子供はボーッと熱中してテレビを見ます。ワタシも実はそうで、だいたいいつもヌボーッと見てます。そんなふうだから、見終わった直後に登場人物の名前を忘れていたりするのなんかしょっちゅうです。
極端な話、ボーッと見ていて伝わらないものは伝わっていないものとみなす!という姿勢です。

いや、まあそれはいいすぎかな‥‥。  
乱暴に言っちゃうと、ワタシ達は、何かを伝えたかったり価値観を共有したいために作品を作ります。
しかし実際のところ、人は、自分の中に全くない価値観を、映像作品を見て“初めて”獲得するということはあまり無いようです。
 よく新聞の視聴者欄とかで、例えば「このドラマを見て親子の繋がりの強さを知りました」みたいな事が書かれている事があります。そういうのを読むといつも思うのですが、おそらく投書した人は「親子の繋がりというものは強いものだ」という価値観を、
ドラマを見る以前に、少なくとも知識として持っていると思うんです。それをドラマを見て確認しただけでしょう。

 例えば、あるアニメで「努力すれば夢はかなう」事を描こうとして、それを語るべくドラマを組み立て、ラストにセリフでそう言ったとします。そのアニメを見て“初 めて” そう思い信じる子供が何人いるでしょうか。ワタシはそう多くはないと思うのです。 「そうだといいな」とか「そんなわけねえよ」とか思う子供は、前もってそういう価値観を実体験を通すなどして持っていると思うのです。そうでない子供は「そういう事 もあるのかな‥‥」てな感じ。
 でもそれはそれでいいと思うのです。作り手としては、観客というものはそうしたものだというくらいの心構えで、それでも何かを残すように作るのが正しいのだとも思い ます。

 さて、そうだとしたとき。ワタシのやり方はこうです。  
例えば「本当の気持ちを素直に話せば、こころは通じる」というテーマの作品があったとしましょう。
もちろんそのテーマは作品全体を通して語りますし、そのための演出構成をします。
 そんな中、あるシーンで、“寂しい気持ちを我慢する子供の頭に、その子のお母さんが優しく手を置いた”という描写をしたとします。全体のテーマとは直接関係ない エピソードですし、ストーリー的には、無意味ではないにしろ無くても大きな支障のないシー ンかもしれません。でも、あえて残します。そのシーンでワタシは、お母さんが子供を思う気持ちの暖かさを描きます。
それは“言葉”に置き換えて理解するというタイ プの メッセージではなく、ただの“空気”です。そういった“空気の感じ”というものは、すうっと浸透する事ができると思うのです。見ている子供のなかには、自分もお母さんからそのように思われているのかなぁという事を感じる子がいる事を願って。
 もちろん、そのシーンで何も得られなかった子供もいるはずです。そういう子も別な シーンで何かが得られるように‥‥。
その話で得られなかった子供も、他の話で何かえられるように、なるべくいくつもいくつもちりばめる。
子供向けの作品を作る時は 、い つもそのような事を気にかけながら作ります。
 それが、メッセージをちりばめるという事だと思っているのです。  まあ、あくまでワタシのやり方でしかないので、普遍性は全くないという事はお断りしておかなくてはなりませんが。

 基本的に、ワタシは“理解する”事よりも“感じる”事のほうが重要だという考 え方 です。
この事は、またあらためて書こうと思います。  勿論、理解して欲しい事もあるわけで、“理解する”事が必要ないという訳ではありませんし、感じてもらうために、前提として理解してもらわなくてはならない事もあるわけで‥‥。
どうしても説明しなくてはならない事もあります。
 そうして説明のためだけに生まれたセリフは「説明セリフ」と言われます。でも、必要です。
“理解する”事と“感じる”事、この両者のバランスを、どのあたりで折り合いをつけるのかが、毎度悩みの種なのです。
【予告】 ○雑記の6『説明セリフ』  ※ 今日の一言: さぼってる訳じゃないの!信じて〜!

2000年10月30日(月)/晴れ

一応10月一杯のつもりで始めた「制作雑記」ですので、ここでひとまず終わりにしまして、
次回からは、また通常の日記に戻りたいと思います。
本当はもうちょっと続く予定だったのですが、どうやら、本編の内容的な事について語らないと書けないような事に
踏み込みつつあるようで、それは本意ではないのでやめときます。
そのあたりは、また今後の日記の中ででも形を変えて書くつもりです。
しかし、前回も書きましたが、今回この「制作雑記」を書いたのは、自分的にはいい経 験でした。
たまにはこうして、自分の考えを文章にしてみるのはいいことかもしれません‥‥といっても、結局そうせざるを得ない状況を
与えられないとやらないんですけどね‥‥。
ではでは、長々とおつきあいくださったみなさん、どうもありがとうございました 。

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○雑記の6『説明セリフ』−−−  感情や言いたい事を“理解”させるような説明のセリフはなるべくやめたいと思 いつつも、どうしても不安で、横手さんに追加してもらったセリフがいくつかあります 。
しかしながら、そういうセリフは後々まで後悔のもとともなります。もっといい方法 があったんじゃないかとか、やんなきゃよかったとか‥‥。  ま、とは言えぶっちゃけた話、作った後で全く後悔が無いなどと言うことがあるはずもないので、別にそれでくよくよしているという訳ではありませんけどね。
ちなみ に、 ワタシはB型です。 “理解させるために”いれたセリフというと、
例えば最終回のユコの「シャルっち 、あんた、親?先生?」というセリフなんかがそうです。
 つまるところ。“シャル達が戦争中の社会と関わっていくと言うことが、ユコ達 (つ まりワタシ達)の世界では、学校や会社、家庭‥と関わっていく事にもあい通じるのだ” という認識を促すためのセリフですよね。
『Strange Dawn』のテーマのひとつであるこの概念。これは、是非とも見た人の心 の中 に残っていてもらいたい事でした。

 戦争の怖さは、もちろん人が沢山死ぬという事に間違いはないのですが、アニメでそれを描いて「こんなに悲惨だから戦争はよくない」ということを“理解”させようとしても、もともとそう思ってない人に対しては、所詮一枚の写真にも勝てません。
 個々人が社会に関わる時の、関わり方としての考え方‥‥まあ、人心という言い方を していいんじゃないかと思いますが、それはいつの世でも誰にでも存在します。
 戦争そのものの怖さとは別に、戦争を成立させてしまう怖さというのが、まさに 人 心。 その怖さを“感じて”もらう事ならできるのではないか‥‥と考えました。
 例えば、心の底では戦争は悪であると“理解”している人が、実際戦争になったら「戦 争の無い世界なんてあり得ないのだ」「自分たちこそが犠牲者だ」「オレにどうにかで きる問題じゃないし」「オレはもともとこの戦争には賛成だ」「平和のために今は 戦う のだ」‥‥など、いろんな考え型をもって自分を正当化するはずです。自分を正当化しないで生きていく事は辛い事ですから。

 そしてそれは学校や会社でも同じで、悪い事と思っていてもそれをどうする事もできない自分を正当化するためには、自分を曲げるしかないんです。 「あいつは役にたたないんだからリストラされて当然」「いじめられるヤツのほうが悪 いんだからオレは止めないんだ」「総会屋の存在は必要悪なんだ」「オレは会社は政治家と癒着しているべきだと思うね」とか‥‥。
 戦争についても本気で肯定する人がいるように、本気でそういう信念の人もいるでしょう。しかし、本当は「間違っているかも‥‥」と思いながら、社会を変えられない自分の無力さを認めないですむように、自分の方をあわせてしまう人は、いる‥‥というか、 実はかなり多くの人がそうなんじゃないかと思うのです。
 それが、戦争を押し進める力になるところが怖さだと思うのですが、その怖さは、いつでも、今、すでに、存在しているという気がするのです。勿論ワタシの中にもあります。

 と、いうような事をセリフで“理解”させようとしては、それこそ、ただの説教 アニメになってしまい、気持ちの中に残ってくれないような気がします。こうして書いていても“知った風な口を叩くんじゃねえ”としか、思えないでしょう−−−というかね、 実際、ワタシ程度のものがそんな事を声高に訴えたところで、“知った風な事”にしかならないんです。
 だから、このことは気持ちとしてひっかかっていてくれて、将来何かの時にふと蘇ってくれればいいのであって、論文のように言葉で理解してほしくはないわけです 。明確 な“セリフ説明”にしてしまっては、逆に心にひっかからない。

『Strange Dawn』には、そういう人心のあり方をいろいろな形として散らしてあります。 それをちゃんと受け取ってもらえたんだという事は、最後まで見てくださった方からの感想からも実感できます。
 つまり、見てくれた人達が、登場人物の誰かに共感できたりできなかったりしている事こそが重要だと思うのです。
 正直に言いますと、ワタシはシナリオを読みながら「オレは村長だなぁ‥‥ダメダメだなぁ」と思っていました‥‥‥(涙)。
中には、「オレは村長を支持する!自分は信念をもって村長であろうとする」という人がいるのかもしれません。
しかし、その人が いざその場になった時に、「もしかしたらダメダメなのかも」というベクトルの思考も心の底に残していて、少しばかりのブレーキになるかもしれません。
そこで 『Strange Dawn』を思い出す必要もありません。『Strange Dawn』からは、何も伝わらなかったという人の中にも、何かそういう自己の中にショックアブソーバーのようなベクトルの何かが残っているといいなぁという。
その程度の、願い‥‥なんです。

 しかし、そんな作品を作ったところで、戦争を抑止できるはずもありませんし、世の中を変えられる大きな力になるわけはありません。それは当然です。どなたかがBBSで書き込んでいたと思いますが、全くもってアニメなんて無力です。
まさにその通 りで、 映画だって小説だって無力だと思います。

 今、ワタシが考えられるところの“アニメにできる事”が『Strange Dawn』です。
アニメにかぎらず、映像、物語にとってできる事といえばこのくらいの事なんじゃないでしょうか。それは決して悲観して言うわけではなく。  だから、今から考えれば「シャルっち、あんた、親?先生?」というセリフは、言わなくても目的は達していたと思うのです。しかし、現実の自分たちへの照らし合わせは、 どうしてもしてもらいたい!という思いから、ギリギリの説明のつもりで追加して もらったものでした。
現に、このセリフからそのことを読みとった人がいましたが、しかし、 それが良かったのかどうなのか‥‥‥。

 いずれにしても、このセリフをはじめとしたいくつかのセリフは、何度見てもいかに もとってつけたセリフという印象がつよくて‥‥そのことが後悔の大きな理由になっているのです。  ※ 今日の一言: 今年ももう、あと二ヶ月か‥‥。

佐藤順一総監督のweb日記(10月の日記)
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